秋は淋しい(あきはさびしい)

 一心配した時子の病氣も、だん/\い方に向って来ると、朝子は毎日ぼんやりした顔をして子供のベッドの裾の方に腰をおろしてゐた。そして時子の寝てゐる間は、白いカーテンの巻き上げてある窓の方を見てゐる。
 窓からは、毎日のやうに釣台で運ばれて来る病人が見えた。病人の顔は黄色くなった木の葉のやうにみんな力ない。けれども空はいつも晴れてゐた。
 窓のそばには、大きな桜の木が一本、庭一ぱいに枝をひろげてゐた。しかしその大きな桜の葉は、もはや黄ばみかけてゐた。そして、いつとなく一つ/\土の上に落ちてゐるのであらう。土の上には隅々に落葉がかさなってゐて、朝子が瞳を閉ぢて静かに耳をすますと、どこからともなく、カサ/\とかすかな落葉の音がした。
『この桜は八重で、花の咲く時にはそりゃ、きれいなんで御座いますよ。』と、時子の附添に頼んだ、看護婦の杉本さんが朝子に云った。朝子は、肉附のいゝ肥えた杉本さんのつやのいゝ顔を見ながら、その大きな桜の木を見上げた。けれども朝子は、その大きな桜の木を見上げて、あかるい色の大きな八重の花の咲くことを、少しも考へなかった。彼女は窓の外を見る度に、桜の葉の黄色くなって行くことばかりが考へられてならなかった。そして、ひろがってゐる大きな枝を見まはして、黄色くなった葉をしみ/″\と見ながら、心からもう秋になったのだと思ふと、朝子はなにか大変なことにぶっつからなければならないやうに悲しく、おど/\した恐怖を感じてならなかった。そして自分の弱ってゐる身体が、再び起き上ることが出来ないやうになって、そのまま闇のなかに入ってしまふやうに淋しかった。
 朝子は、多い髪を束ねたまゝ、白い両手を重ねて、何も云はずにぢっとしてゐた。
 繁吉は、時子の病気が少しよくなると、弱い病身の妻の朝子の身体をすぐに気づかひ初めた。それで時子を杉本さんに任せて、一まづ明けといたうちに帰ることにした。
 繁吉は、丁度寝てゐる時子の頬に脣を押しつけて、短い髪の毛の小さい頭を、大きなてのひらでそっとなでゝ、それから布団のなかに静かに手を入れて、そっと時子の足の先にさはると、
『大丈夫だ。暖かくなってゐる。』と云って、朝子をかへりみると病室を出た。朝子は、子供の顔を黙ってみてゐたが、そのまゝ良人をっとのあとからついて出た。
 朝子の家は病院から程近かったけれども、彼女は俥にのった。そして良人は彼女の俥と一緒に歩いた。朝子はなんとなく自分の家に行くことが恐ろしいやうな心持がした。彼女は、子供を失ってしまった後のやうな、妙な心持になって、どうしてもその心持からはなれることが出来なかった。自分と良人とが朝子をつれずに家に行かうとしてゐる。けれども家に行っても時子はゐないのだ、と思ふと彼女はぼっとして気のぬけたやうな心持になった。時子は病院にゐるのだといふ事は彼女が知ってゐても、その時考へても、なんにもならなかった。只時子のゐる家に帰って行くことが恐ろしいやうな心がするのであった。
 曇った日のせゐか、家のなかはうす暗かった。そしてなんとも知れず厭な寂しい心地がした、丁度家が地下にでも埋められてあるやうにじめ/\して、玄関などには白いかびがはえてゐた。そしてなんの物音も聞えない、堪へがたく静かである。
 朝子はしばらく疲れきったやうに、ぢっと坐ってゐる。が、良人が雨戸をあけたり、裏口をあけたりしてゐるので、ふと気がついたやうに壁を見てはっとした。壁には時子の楽書がたくさんに書かれてあった。朝子はまた時子が失はれてしまった後のやうな心になってしまってたのであった。あの驚き、あの苦痛、あの悲哀、時子が発病して殆ど危険に陥った時のことを思ふと、繁吉も朝子も、時子が失はれたものでなければならないやうな心がした。子供を失ったと同じ苦痛、同じ悲哀、同じ驚きを、彼も彼女も味はったのであった。彼等は、思ひ出したやうに、時子が死なゝかったといふよろこびを気がついたやうに話し合っては、夢からさめたやうに、はっとして静かに笑ふやうな場合が多かった。
[#一字下げ忘れか?200-14]朝子はあらゆる子供の足跡や玩具おもちゃなどを見ては、何となく胸が迫って、寂しい心持になって行った。
 朝子は、二三日の間静かな二階の部屋に床をしいて横になってゐた。けれども、何と云ってとりとめて考へるでもなくて、只おど/\した恐怖と悲しみとの為めに、安らかに眠ることが出来なかった。
 彼女は、眼を開いたり閉ぢたりした。あけはなした縁には、いつもすみ切った静かな風が流れてゐた。朝子は、子供の病気の為めに夏がいつ過ぎてしまったのかわからなかった。あの不意なおどろきも悲しみもなげきも只夢のやうな気がした。あの幼い何も知らない子供を悪魔が奪って行く。その時は、いかなる父親や母親の力も、もはや何者も及ばないのだと、考へるより仕方がなかった。