お律と子等と(おりつとこらと)

        一

 雨降りの午後、今年中学を卒業した洋一よういちは、二階の机に背をまるくしながら、北原白秋きたはらはくしゅう風の歌を作っていた。すると「おい」と云う父の声が、突然彼の耳を驚かした。彼は倉皇そうこうと振り返る暇にも、ちょうどそこにあった辞書の下に、歌稿を隠す事を忘れなかった。が、幸い父の賢造けんぞうは、夏外套なつがいとうをひっかけたまま、うす暗い梯子はしごの上り口へ胸までのぞかせているだけだった。
「どうもおりつ容態ようだいが思わしくないから、慎太郎しんたろうの所へ電報を打ってくれ。」
「そんなに悪いの?」
 洋一は思わず大きな声を出した。
「まあ、ふだんが達者だから、急にどうと云う事もあるまいがね、――慎太郎へだけ知らせた方が――」
 洋一は父の言葉を奪った。
戸沢とざわさんは何だって云うんです?」
「やっぱり十二指腸の潰瘍かいようだそうだ。――心配はなかろうって云うんだが。」
 賢造は妙に洋一と、視線の合う事を避けたいらしかった。
「しかしあしたは谷村博士たにむらはかせに来て貰うように頼んで置いた。戸沢さんもそう云うから、――じゃ慎太郎の所を頼んだよ。宿所はお前が知っているね。」
「ええ、知っています。――お父さんはどこかへ行くの?」
「ちょいと銀行へ行って来る。――ああ、下に浅川あさかわ叔母おばさんが来ているぜ。」
 賢造の姿が隠れると、洋一には外の雨の音が、急に高くなったような心もちがした。愚図愚図ぐずぐずしている場合じゃない――そんな事もはっきり感じられた。彼はすぐに立ち上ると、真鍮しんちゅうの手すりに手を触れながら、どしどし梯子はしごを下りて行った。
 まっすぐに梯子を下りた所が、ぎっしり右左の棚の上に、メリヤス類のボオル箱を並べた、手広い店になっている。――その店先の雨明あまあかりの中に、パナマ帽をかぶった賢造は、こちらへうしろを向けたまま、もう入口に直した足駄あしだへ、片足下している所だった。
旦那だんな工場こうばから電話です。今日きょうあちらへ御見えになりますか、伺ってくれろと申すんですが………」
 洋一が店へ来ると同時に、電話に向っていた店員が、こう賢造の方へ声をかけた。店員はほかにも四五人、金庫の前や神棚の下に、主人を送り出すと云うよりは、むしろ主人の出て行くのを待ちでもするような顔をしていた。
「きょうは行けない。あした行きますってそう云ってくれ。」
 電話の切れるのが合図あいずだったように、賢造は大きな洋傘こうもりを開くと、さっさと往来へ歩き出した。その姿がちょいとの間、浅く泥をいたアスファルトの上に、かすかな影を落して行くのが見えた。
神山かみやまさんはいないのかい?」
 洋一は帳場机に坐りながら、店員の一人の顔を見上げた。
「さっき、何だか奥の使いに行きました。――りょうさん。どこだか知らないかい?」
「神山さんか? I don't know ですな。」
 そう答えた店員は、上りがまちにしゃがんだまま、あとは口笛を鳴らし始めた。
 その間に洋一は、そこにあった頼信紙へ、せっせと万年筆を動かしていた。ある地方の高等学校へ、去年の秋入学した兄、――彼よりも色の黒い、彼よりもふとった兄の顔が、彼には今も頭のどこかに、ありあり浮んで見えるような気がした。「ハハワルシ、スグカエレ」――彼ははじめこう書いたが、すぐにまた紙をいて、「ハハビョウキ、スグカエレ」と書き直した。それでも「ワルシ」と書いた事が、何か不吉な前兆ぜんちょうのように、頭にこびりついて離れなかった。
「おい、ちょいとこれを打って来てくれないか?」
 やっと書き上げた電報を店員の一人に渡したのち、洋一は書き損じた紙を噛み噛み、店のうしろにある台所へ抜けて、晴れた日も薄暗い茶のへ行った。茶の間には長火鉢の上の柱に、ある毛糸屋の広告を兼ねた、大きな日暦ひごよみが懸っている。――そこに髪を切った浅川の叔母が、しきりと耳掻みみかきを使いながら、忘れられたように坐っていた。それが洋一の足音を聞くと、やはり耳掻きを当てがったまま、始終ただれている眼をもたげた。
今日こんにちは。お父さんはもうお出かけかえ?」
「ええ、今し方。――お母さんにも困りましたね。」
「困ったねえ、私は何も名のつくような病気じゃないと思っていたんだよ。」
 洋一は長火鉢の向うに、いやいや落着かないひざを据えた。ふすま一つ隔てた向うには、大病の母が横になっている。――そう云う意識がいつもよりも、一層この昔風な老人の相手を苛立いらだたしいものにさせるのだった。叔母はしばらく黙っていたが、やがて額で彼を見ながら、