月譜(がっぷ)

 月の名所は桂浜といへる郷里のうた、たゞ記憶に存するのみにて、幼少の時より他郷に流寓して、未だ郷にかへりたることなければ、まことはその桂浜の月見しことなけれど、名たゝる海南絶勝の地の、危礁乱立する浜辺に、よりては砕くる浪の花しろく、九十九湾縹渺として烟にくるゝ夕雲をはらひはてし秋風を浜松の梢にのこして、長鯨潮を吹く浪路の末に、一輪の名月あらひ出されたらむは、如何に心ゆくべきかぎりぞや。
 鎮守のまつりのかへるさ、丁字路上に、他のみちづれと袂をわかちて家路はるけき野中の路の、夜ふけてさびしきに、齢同じばかりなる隣りの小娘とふたりつれたつ影法師もあきらかに、仰げば白露空に横はりて明月高くかゝれるに、心もおのづからすみて、笑いあひつゝ行く路すがら、かたみにうつれる影の頭ふまむと争ひて、あとになり先きになりしが、はてはわれ常にさきになりて、娘の頭ふみければ、はらたてて、共に家へは帰らじとすねたる折しも、むら雲とみに月を呑みて、あたりは闇となりけるに、おそろしやと寄りそひて覚えず抱きあひてぞ泣きし。
 俗気なき人と碁をかこみて、黄昏に至りて、碁の目見えわかねば、しばし子を下す手をとゞめて、浮世の外のこと語らふほどに、眉目いつしかあきらかになれるに、顧みれば梅が枝まるまどにうつりて、さながら一幅の墨画の如し。窓をひらけば、月は老梅の梢に在り。暗香人を掠めて、春色澹として無からむとす。風笛あらばと思ふ折しも、それしやのはてが姿をかへて住まへる隣りの家に、なまめきたる声して、弾く三味線の調子のいたういやしきに、興味とみにさめはてたるも口惜し。
 可愛らしき小児をいだく手も清くほそやかにして、力なげなる年若き女の、お月さまいくつ十三なゝつなど、小声にうたふにつれて、かたごとに、のゝさま/\と言ひつゞけしが、はてはつかれて、やわらかき手、母の胸にあてて、ちゝ/\とねだれば、月に白き豊胸露はし、乳房ふくませて、いきうつしと覚えずつぶやきたる声低く、眼も放たでみとれたる足元に、竹影娑婆として、孤月むなしく長風の上にすみてつれなし。
 老桜月を帯びて霞の奧ふかき十二の欄干に、よりつくせる一人の少女の、鬢のほつれ毛を春風になぶらせて、払はむともせず、裂きたる玉章手にもちて、くれなゐの袖、やさしき口にかみしめたるまゝ、何を怨むか、続々として欄干の上に堕す涙の、月にかゞやきて、さながら真珠を散らすが如くなるに、よそめもいとゞ消えたき思ひすべし。
 ひねもす清渓に釣する翁の、家にまつ人もなければにや、日くるゝも、なほ枯れ木の如く石に腰かけて、垂るゝ綸のはしに、いつしか一痕の月かゝるよと見るほどに、やがて手応へしければ、ひき上ぐる竿の彎々たるにかゝり来れる一尾の香魚の溌刺たるを捉へて、かごに入れて、今日はこれまでなりと、鼻歌たかくうたひて帰りゆきしあと、渓水旧に依りて、空しく月を砕いて流るるもいとすが/\し。
 ひとりにはひろき蚊帳の中、白くほのみえて、あふぐ団扇の音と共にえならぬ香り洩れて、縁には焚きさしの蚊遣火なほいきて残れる夏の短夜に、またぬ月影、はや松の枝にかたむきそめて、さやけき光を、ねやの中まで送れるは、いかなる浮世の外の情ぞや。
 薄に置ける白露を、かしくと読みしゆふべ、夜に入りて暗きをたよりに、跫足しのばせてたどる行手の黒き影に、さぞやまちわびてと近寄るほどに、雲破れて洩るゝ月の下、さびしげに立てる石地蔵の前に、あきれ顔なる賤の女の、さすが手拭に顔のなかばは包みて、しどけなきもすその脛もあらはに血のにじみたる跡あるは、人目をしのぶ路の、いばらなどにきずつけられしにやとあはれなり。
 千里雲へだたりて、明月むなしく両地の情を照す秋の夕べ、昔は共にこの月に泣きたる事もありしと、そゞろにうらがなしく、年の十とせ、満身の血の半ばは詩に灑ぎ、半ばは恋に灑ぎて、思ひ絶えなむとする今宵、月に向ひて腸をたつ我身の影さびしく、たゝみの上に累々として細し。
 両毛の間に遊びて、妙義山を下りしとき、もてる銭悉くつきて、今は食を得るに由なく、飢をしのびて、昨夜は稲田のあぜに眠り、今宵は路ばたの材木の上に眠らむとせしに、蚊多くして眠られず。よろめく足を踏みしめて、あゆむ行手に、ひろき瓜田あり。金銀財宝とは異なりて、天地のつくりなせるものをしばらくかりて我飢を医せんにはと、心むら/\と乱れて、あはやわれ履を瓜田に入れむとせし刹那、我影のあまりに明かなるに、仰げば隈なき一輪の月魄、天つ御神のにらみたまふかと思はれて、そゞろに身の毛よだち、穴あらばとばかりに身をちゞめて、月を拝みてぞ泣きし。