菊模様皿山奇談(きくもようさらやまきだん)


 大奸は忠に似て大智は愚なるが如しと宜なり。此書は三遊亭圓朝子が演述に係る人情話を筆記せるものとは雖も、其の原を美作国久米郡南条村に有名なる皿山の故事に起して、松蔭大藏が忠に似たる大奸と遠山權六が愚なるが如き大智とを骨子とし、以て因果応報有為転変、恋と無常の世態を縷述し、読む者をして或は喜び或は怒り或は哀み或は楽ましむるの結構は実に当時の状況を耳聞目撃するが如き感ありて、圓朝子が高座に上り、扨て引続きまして今晩お聞きに入れまするは、とお客の御機嫌に供えたる作り物語りとは思われざるなり。蓋し当時某藩に起りたる御家騒動に基き、之を潤飾敷衍せしものにて、其人名等の世に知られざるは、憚る所あって故らに仮設せるに因るならん、読者以て如何とす。
  明治二十四年十一月
春濤居士識


[#改ページ]



        一

 美作国みまさかのくに粂郡くめごおりに皿山という山があります。美作や粂の皿山皿ほどのまなこで見ても見のこした山、という狂歌がある。その皿山の根方ねがたに皿塚ともいい小皿山ともいう、こんもり高い処がある。そのいわれを尋ねると、昔南粂郡みなみくめごおり東山村ひがしやまむらという処に、東山作左衞門ひがしやまさくざえもんと申す郷士ごうしがありました。すこぶ豪家ごうかでありますが、奉公人は余り沢山使いません。此の人の先祖は東山将軍義政よしまさつかえて、東山という苗字を貰ったという旧家であります。其の家に東山公から拝領の皿が三十枚あります。今九枚残っているのが、肥後ひごの熊本の本願寺支配の長峰山ちょうほうざん随正寺ずいしょうじという寺の宝物ほうもつになって居ります。これはの諸方で経済学の講釈をしたり、平天平地へいてんへいちとかいう機械をもって天文学を説いて廻りました佐田介石さだかいせき和尚が確かに見たとわたくしへ話されました。の様な皿かと尋ねましたら、非常に良い皿で、色は紫がゝった処もあり、また赤いような生臙脂しょうえんじがゝった処があり、それに青貝のようにピカ/\した処もあると云いますから、交趾焼こうちやきのような物かと聞きましたら、いや左様そうでもない、珍らしい皿で、成程一枚こわしたら其の人を殺すであろうと思うほどの皿であると云いました。其のほかにある二十枚の皿を白菊と云って、ごく薄手の物であると申すことですが、東山時分に其様そん薄作うすさくの唐物はない筈、決して薄作ではあるまいと仰しゃる方もございましょうが、ちょいと触っても毀れるような薄い皿で、欠けたり割れたりして、継いだのが有るということです。此の皿には菊の模様が出ているので白菊と名づけ、あとの十枚は野菊のような色気がある処から野菊と云いました由で、此の皿は東山家伝来の重宝ちょうほうであるゆえ大事にするためでも有りましょう、先祖が此の皿を一枚毀す者は実子たりとも指一本を切るという遺言状をこの皿に添えて置きましたと申すことで、ちと馬鹿々々しい訳ですが、昔は其様なことが随分沢山有りましたそうでございます。其の皿は実に結構な品でありますゆえ、たれも見たがりますから、作左衞門は自慢で、くだんの皿を出しますのは、ういうものか家例かれいで九月の節句に十八人の客を招待しょうだいして、これを出します。もっとも豪家ですからい道具も沢山所持して居ります。殊に茶器には余程の名器を持って居りますから自慢で人に見せます。又御領主の重役方などを呼びましては度々たび/\饗応を致します。左様な理由わけゆえ道具係という奉公人がありますが、此の奉公人がとんと居附きません。何故なぜというと、毀せば指一本を切ると云うのですから、皆道具係というと怖れて御免をこうむります。そこで道具係の奉公人には給金を過分に出します。其の頃三年で拾両と云っては大した給金でありますが、それでも道具係の奉公人になる者がありません。中には苦しまぎれに、なんの小指一本ぐらい切られても構わんなどゝ、度胸で奉公にまいる者がありますが、薄作だからついあやまっては毀して指を切られ、だん/\此の話を聞伝えて奉公に参る者がなくなりました。陶器と申す物も唐土からには古来から有った物ですが、日本では行基菩薩ぎょうきぼさつが始まりだとか申します。この行基菩薩という方は大和国やまとのくに菅原寺すがわらでら住僧じゅうそうでありましたが、陶器の製法を発明致されたとの事であります。其の元祖藤四郎とうしろうという人がヘーシを発明致したは貞応ていおうの二年、開山道元どうげんに従い、唐土へ渡って覚えて来て焼き始めたのでございましょうが、これが古瀬戸こせとと申すもので、安貞あんてい元年に帰朝致し、人にも其の焼法やきほうを教えたという。れはこん明治二十四年から六百六十三年ぜんのことで、又祥瑞五郎太夫しょんずいごろだゆう頃になりまして、追々と薄作の美くしい物も出来ましたが、其の昔足利の時代にもごく綺麗な毀れ易い薄いものが出来ていた事があります。丁度明和めいわの元年に粂野美作守くめのみまさかのかみ高義公たかよしこう国替で、美作の国勝山かつやまの御城主になられました。その領内南粂郡東山村の隣村りんそん藤原村ふじわらむらと云うがありまして、此の村に母子おやこ暮しの貧民がありました。母は誠に病身で、千代ちよという十九の娘がございます、至って親孝行で、器量といい品格といい、物の云いよう裾捌すそさばきなり何うも貧乏人の娘には珍らしい別嬪で、から嫁に貰いたいと云い込んでも、一人娘ゆえ上げられないと云う。尤も其の筈で、出が宜しい。これは津山つやまの御城主、其の頃松平越後守まつだいらえちごのかみ様の御家来遠山龜右衞門とおやまかめえもんの御内室の娘で、以前は可なりな高を取りました人ゆえ、自然と品格がちがって居ります。浪人して二年目に父を失い永らくの間浪々中、慣れもしない農作や人の使いをしてわずかの小畠こはたをもって其の日をやっと送ってる内に、母が病気附きまして、娘は母に良い薬を飲ませたいと、昼は人に雇われ、夜は内職などをして種々いろ/\介抱に力を尽しましたが、母は次第に病がおもりました。こゝに以前此の家に奉公を致していました丹治たんじと申す老爺じゞいがありまして、時々見舞に参ります。