名人長二(めいじんちょうじ)


 三遊亭圓朝子、曾て名人競と題し画工某及女優某の伝を作り、自ら之を演じて大に世の喝采を博したり。而して爾来病を得て閑地に静養し、亦自ら話術を演ずること能わず。然れども子が斯道に心を潜むるの深き、静養の間更に名人競の内として木匠長二の伝を作り、自ら筆を採りて平易なる言文一致体に著述し、以て門弟子修業の資と為さんとす。今や校合成り、梓に上せんとするに当り、予に其序を需む。予常に以為く、話術は事件と人物とを美術的に口述するものにして、音調の抑揚緩急得て之を筆にすること能わず、蓋し筆以て示すを得るは話の筋のみ、話術其物は口之を演ずるの外亦如何ともすること能わずと。此故に話術家必しも話の筋を作為するものにあらず、作話者必しも話術家にあらざるなり。夫れ然り、然りと雖も話術家にして巧に話の筋を作為し、自ら之を演ぜんか、是れ素より上乗なる者、彼の旧套を脱せざる昔話のみを演ずる者に比すれば同日の論にあらず。而して此の如きは百歳一人を出すを期すべからず。圓朝子は其話術に堪能なると共に、亦話の筋を作為すること拙しとせず。本書名人長二の伝を見るに立案斬新、可笑あり、可悲あり、変化少からずして人の意表に出で、而かも野卑猥褻の事なし。此伝の如きは誠に社会現時の程度に適し、優に娯楽の具と為すに足る。然れども是れ唯話の筋を謂うのみ。其話術に至りては之を演ずる者の伎倆に依りて異ならざるを得ず。門弟子たるもの勉めずんばあるべけんや。若し夫れ圓朝子病癒ゆるの日、親しく此伝を演せば其妙果して如何。長二は木匠の名人なり、圓朝子は話術の名人なり、名人にして名人の伝を演す、其霊妙非凡なるや知るべきのみ。而して聴衆は話の主人公たる長二と、話術の演術者たる圓朝子と、両々相対して亦是れ名人競たるを知らん。
  乙未初秋
土子笑面識


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        一

 これは享和きょうわ二年に十歳で指物師さしものし清兵衛せいべえの弟子となって、文政ぶんせいの初め廿八歳の頃より名人の名を得ました、長二郎ちょうじろうと申す指物師の伝記でございます。およそ当今美術とか称えまする書画彫刻蒔絵まきえなどに上手というは昔から随分沢山ありますが、名人という者はまことにまれなものでございます。通常より少し優れた伎倆うでまえの人が一勉強ひとべんきょういたしますと上手にはなれましょうが、名人という所へはたゞ勉強したぐらいでは中々参ることは出来ません。自然の妙というものを自得せねば名人ではございません。此の自然の妙というものは以心伝心とかで、手をもって教えることも出来ず、口で云って聞かせることも出来ませんゆえ、親が子に伝えることも成らず、師匠が弟子に譲るわけにもまいりませんから、名人が二代も三代も続くことは滅多にございません。さて此の長二郎と申す指物師は無学文盲の職人ではありますが、仕事にかけては当時無類と誉められ、江戸町々の豪商ものもちはいうまでもなく、大名方の贔屓ひいきこうむったほどの名人で、其のこしらえました指物も御維新ごいっしん前までは諸方に伝わって珍重されて居りましたが、瓦解がかいの時二束三文で古道具屋の手に渡って、うかなってしまいましたものと見えて、昨今は長二の作というものをとんと見かけません。世間でも長二という名人のあった事を知っている者がすくのうございますから、残念でもありますし、又先頃弁じました名人くらべのうち錦の舞衣まいぎぬにも申述べた通り、何芸によらず昔から名人になるほどの人は凡人でございませぬゆえ、何か面白いお話があろうと存じまして、それからそれへと長二の履歴を探索に取掛りました節、人力車から落されて少々怪我をいたし、打撲うちみで悩みますから、或人の指図で相州そうしゅう足柄下郡あしがらしもごおり湯河原ゆがわら温泉へ湯治とうじに参り、温泉宿伊藤周造いとうしゅうぞう方に逗留中、図らず長二の身の上にかゝるくわしい事を聞出しまして、此のお話が出来上ったのでございます。是がまことに怪我の功名と申すものかと存じます。文政ぶんせいの頃江戸の東両国大徳院だいとくいん前に清兵衛と申す指物の名人がござりました。是は京都で指物の名人と呼ばれた利齋りさいの一番弟子で、江戸にまいって一時いちじに名を揚げ、箱清はこせいといえばたれ知らぬ者もないほどの名人で、当今にても箱清の指した物は好事こうずの人が珍重いたすことで、文政十年の十一月五日に八十三歳で歿しました。墓は深川亀住町かめずみちょう閻魔堂えんまどう地中じちゅうの不動院にのこって、戒名を參清自空信士さんせいじくうしんしと申します。この清兵衛が追々年を取り、六十を越して思うように仕事も出来ず、女房が歿なくなりましたので、弟子の恒太郎つねたろうという器用な柔順おとなしい若者を養子にして、娘のおまさめあわせましたが、恒太の伎倆うでまえはまだ鈍うございますから、念入の仕事やむずかしい注文を受けた時は、みんな長二にさせます。長二は其の頃両親ともなくなりましたので、煮焚にたきをさせる雇婆やといばあさんを置いて、独身で本所〆切しめきり[#「〆切」に校注、「枕橋の架してある堀の奥のところ」、ただし底本では校注が脱落、底本の親本にて確認]世帯しょたいを持って居りましたが、何ういうものですか弟子を置きませんから、下働きをする者に困り、師匠の末の弟子の兼松かねまつという気軽者を借りて、これを相手に仕事をいたして居りますところが、たれいうとなく長二のことを不器用長二と申しますから、何所どこか仕事に下手なところがあるのかと思いますに、左様そうではありません。仕事によっては師匠の清兵衛より優れた所があります。是は長二が他の職人に仕事を指図するに、なんでも不器用に造るがい、見かけが器用に出来た物に永持ながもちをする物はない、永持をしない物は道具にならないから、表面うわべ不細工ぶざいくに見えても、十百年とッぴゃくねんの後までもこわれないように拵えなけりゃ本当の職人ではない、早く造りあげて早く銭を取りたいと思うような卑しい了簡で拵えた道具は、何処どこにか卑しい細工が出て、立派な座敷の道具にはならない、是は指物ばかりではない、でも彫物ほりものでも芸人でも同じ事で、銭を取りたいという野卑な根性や、ひとに褒められたいという※(「「滔」の「さんずい」に代えて「言」」、第4水準2-88-72)おべっかがあってはい事は出来ないから、其様そんな了簡を打棄うッちゃって、魂を籠めて不器用に拵えて見ろ、屹度きっと美い物が出来上るから、不器用にやんなさいと毎度申しますので、遂に不器用長二と綽名あだなをされる様になったのだと申すことで。