西洋人情話 英国孝子ジョージスミス之伝(せいようにんじょうばなし えいこくこうしジョージスミスのでん)

助「はい、私(わし)も人に損を掛けられて仕様がねい、何かすべいと思っていると、段々聞けば県庁が前橋へ引けるという評判だから、此所(こゝ)で取付(とりつ)かなければなんねいから、洋物屋(ようぶつや)をすれば、前には唐物屋(とうぶつや)と云ったが今では洋物屋と申しますそうでござりやすが、屹度(きっと)当るという人が有りますから、此処(こゝ)で一息(ひといき)吹返(ふきかえ)さなければなんねいと思って、田地(でんじ)からそれにまア御案内の古くはなったが、土蔵を抵当にしまして、漸々(よう/\)のことで利の食う金を借りて、三千円資本(もとで)を持って出て参ったでがんすから、宿屋へ此の金を預けて仕入(しいれ)をするのだが、滅多に来(き)ねえから、馴染(なじみ)もねえ所へ預けるのも心配(しんぺえ)だから、身代の手堅い処がと、段々考(かんげ)えたところが、春見様が宿屋店(やどやみせ)を出しておいでなさると云うから、買出(かいだ)しするにも安心と考(かんげ)えてまいりました、当分買出しに行(ゆ)きますまで、どうか御面倒でも三千円お預かり下さるように願います」
丈「成程左様か」
 と話をしていると、井生森又作は如才(じょさい)ない狡猾(こうかつ)な男でございますから、是だけの宿屋に番頭も何もいないで、貧乏だと悟られて、三千円の金を持って帰られてはいけないと思って、横着者(おうちゃくもの)でございますから直(す)ぐに羽織を脱いでそれへ出てまいり。
又「お初にお目に懸りました、手前は当家の番頭又作と申すもので、旦那から承わって居りましたが、ようこそお出(い)でゞ、此の後(ご)とも幾久しく宜(よろ)しゅう願います、えゝ当家も誠に奉公人も大勢居りましたが、女共を置きましたところが何かぴら/\なまめいてお客が入りにくいから、皆一同に暇(いとま)を出して、飯焚男(めしたきおとこ)も少々訳が有って暇(ひま)を出しまして、私(わたくし)一人(いちにん)に相成りました、どうかお荷物をお預けなすったら、何は久助(きゅうすけ)は何処(どこ)へ行ったな」
助「横浜でも買出しをして、それから東京でも買出しをして、遅くもどうかまア十一月中頃までに帰(けえ)ろうと、こう心得まして出ました」
丈「成程、それでは兎も角も三千円の金を確かに預かりましょう」
助「就(つ)きましては、誠に斯様(かよう)な事を申しては済みませんが、私(わし)の身に取っては三千円は実に大(たい)した金で、今は大(でか)い損をした暁(あかつき)のことで、此の三千円は命の綱で大事な金でがんすから、此方(こちら)にお預け申して、さア旦那様を疑ぐる訳じゃ有りませんが、どうか三千円確かに預かった、入用(にゅうよう)の時には渡すという預(あずか)り証文を一本御面倒でも戴きたいもので」
丈「成程これはお前の方で云わぬでも当然の事で、私の方で上げなければならん、只今書きましょう」
 と筆を取って金(きん)三千円確かに預かり置く、要用(よう/\)の時は何時(なんどき)でも渡すという証文を書いて、有合(ありあわ)した判をぽかりっと捺(お)して、
丈「これで好(い)いかえ」
助「誠に恐入ります、これでもう大丈夫」
 とこれを戴いて懐中物の中へ入れます。紙入(かみいれ)も二重になって居て大丈夫なことで、紙入も落さんようにして、
助「大宮から歩いて参りまして草臥(くたび)れましたから、どうかお湯を一杯戴きたいもので」
又「誠に済みませんが、※(たが)反(は)ねましてお湯を立てられません、それに奉公人が居りませんから、つい立てません、相済みませんが、此の先(さ)きに温泉がありますから、どうかそれへお出(い)でなすって下さい」
助「温泉というと伊香保(いかほ)や何かの湯のような訳でがんすか」
又「なアに桂枝(けいし)や沃顛(よじいむ)という松本先生が発明のお薬が入って居りまして、これは繁昌(はんじょう)で、其の湯に入ると顔が玉のように見えると云うことでございます」
助「東京へは久しぶりで出てまいって、それに又様子が変りましたな、どうも橋が石で出来たり、瓦(かわら)で家(うち)が出来たり、方々(ほう/″\)が変って見違えるように成りました、その温泉は何処(どこ)らでがんすか」
又「此処(こゝ)をお出(い)でになりまして、向うの角(かど)にふらふが立って居ります」
助「なんだ、ぶら/\私(わし)が歩くか」
又「なアに西洋床(せいようどこ)が有りまして、有平(あるへい)見た様(よう)な物が有ります、その角に旗が立って居りますから、彼処(あすこ)が宜しゅうございます」
助「私(わし)はこれ髻(まげ)がありますから、髪も結(ゆ)って来ましょうかねえ」
又「行って入らっしゃいまし、残らず置いて入らっしゃいまし」
丈「証書の入った紙入を持って行って、板の間に取られるといけないよ」