夜明け前(よあけまえ)

     第一章

       一

 円山応挙まるやまおうきょが長崎の港を描いたころの南蛮船、もしくはオランダ船なるものは、風の力によって遠洋を渡って来る三本マストの帆船であったらしい。それは港の出入りにき船を使うような旧式な貿易船であった。それでも一度それらの南蛮船が長崎の沖合いに姿を現わした場合には、急を報ずる合図の烽火のろしみさきの空に立ち登り、海岸にある番所番所はにわかにどよめき立ち、あるいは奉行所ぶぎょうしょへ、あるいは代官所へと、各方面に向かう急使の役人は矢のように飛ぶほどの大騒ぎをしたものであったという。
 試みに、十八片からの帆の数を持つ貿易船を想像して見るがいい。その船の長さ二十七、八けん、その幅八、九間、その探さ六、七間、それに海賊その他に備えるための鉄砲二十ちょうほどと想像して見るがいい。これが弘化こうか年度あたりに渡来した南蛮船だ。応挙は、紅白の旗を翻した出島でじま蘭館らんかんを前景に、港の空にあらわれた入道雲を遠景にして、それらのオランダ船を描いている。それには、ちょうど入港する異国船が舳先へさきに二本の綱をつけ、十そうばかりの和船にそれをひかせているばかりでなく、本船、き船、共にいっぱいに帆を張った光景が、画家の筆によってとらえられている。嘉永かえい年代以後に渡来した黒船は、もはやこんな旧式なものではなかった。当時のそれには汽船としてもいわゆる外輪型なるものがあり、航海中は風をたよりに運転せねばならないものが多く、新旧の時代はまだそれほど入れまじっていたが、でも港の出入りに曳き船を用うるような黒船はもはやその跡を絶った。
 極東への道をあけるために進んで来たこの黒船の力は、すでに長崎、横浜、函館はこだての三港を開かせたばかりでなく、さらに兵庫ひょうごの港と、全国商業の中心地とも言うべき大坂の都市をも開かせることになった。実に兵庫の開港はアメリカ使節ペリイがこの国に渡来した当時からの懸案であり、徳川幕府が将軍の辞職をけてまで朝廷と争って来た問題である。こんな黒船が海の外から乗せて来たのは、いったいどんな人たちか。ここですこしそれらの人たちのことを振り返って見る必要がある。

       二

 紅毛こうもうとも言われ、毛唐人けとうじんとも言われた彼らは、この日本の島国に対してそう無知なものばかりではなかった。ケンペルの旅行記をあけて見たほどのものは、すでに十七世紀の末の昔にこの国に渡って来て、医学と自然科学との知識をもっていて、当時における日本の自然と社会とを観察したオランダ人のあることを知る。この蘭医らんいは二か年ほど日本に滞在し、オランダ使節フウテンハイムの一行にしたがって長崎から江戸へ往復したこともある人で、小倉こくら、兵庫、大坂、京都、それから江戸なぞのそれまでヨーロッパにもよく知られていなかった内地の事情をあとから来るもののために書き残した。このオランダ人が兵庫の港というものを早く紹介した。その書き残したものによると、兵庫は摂津せっつの国にあって、明石あかしから五里である、この港は南方に広い砂の堤防がある、須磨すまの山から東方に当たって海上に突き出している、これは自然のものではなくて平家へいけ一門の首領が良港を作ろうとして造ったものだと言ってある。おそらくこの工事に費やされたる労力および費用は莫大ばくだいなものであろう、工事中海波のため二回までも破壊され、日本の一勇士が身を海中に投じて海神の怒りをしずめたために、かろうじてこれを竣工しゅんこうすることができたとの伝説も残っていると言ってある。この兵庫はしもせきから大坂に至る間の最後の良港であって、使節フウテンハイムの一行が到着した時は三百そう以上の船が碇泊ていはくしているのを見た、兵庫市には城はない、その大きさは長崎ぐらいはあろう、海浜の人家は茅屋あばらやのみであるが、奥の方に当たってやや大きなのがあるとも言ってある。
 こんな先着の案内者がある。しかし、それらの初期の渡来者がいかに身を屈して、この国の政治、宗教、風俗、人情、物産なぞを知るに努めたかは、ケンペルのようなオランダ人のありのままな旅行記が何よりの証拠だ。彼の目に映った日本人は義烈で勇猛な性質がある。多くの人に知られないような神仏のごときをもなおかつかろんずることをしない。しかも一度それを信奉した上は、がんとしてその誓いを変えないほどの高慢さだ。もしそれこの高慢と闘争を好むの性癖を除いたら、すなわち温和怜悧れいりで、好奇心に富んでいることもその比を見ない。日本人は衷心においては外国との通商交易を望み、中にもヨーロッパの学術工芸を習得したいと欲しているが、ただ自分らを商賈しょうこに過ぎないとし、最下等の人民として軽んじているのである。おそらくこれは嫉妬しっとと不信とに基づくことであろうから、この際友誼ゆうぎを結んで百事を聞き知ろうとするには、まずその心を収攬しゅうらんするがいい。貨幣のたぐいなどは惜しまず握らせ、この国のものをだまし、この国のものを尊重し、それと親通するのが第一である。ケンペルはそう考えて、自分に接近する人たちに薬剤の事や星学なぞを教授し、かつ洋酒を与え、ようやくのことで日本人の心を籠絡ろうらくして、それからはすこぶる自由に自分の望むところを尋ね、かつて世界の秘密とされたこの島国に隠された事をも遺憾なく知ることができたと言ってある。