縮図(しゅくず)



 晩飯時間の銀座の資生堂は、いつに変わらず上も下も一杯であった。
 銀子と均平とは、しばらく二階の片隅かたすみ長椅子ソファで席のくのを待った後、やがてずっと奥の方の右側の窓際まどぎわのところへ座席をとることができ、銀子の好みでこの食堂での少し上等の方の定食を註文ちゅうもんした。均平が大衆的な浅草あたりの食堂へ入ることを覚えたのは、銀子と附き合いたての、もう大分古いことであったが、それ以前にも彼がぐれ出した時分の、舞踏仲間につれられて、下町の盛り場にある横丁のおでん屋やとんかつ屋、小料理屋へ入って、夜更よふけまで飲み食いをした時代もあり、映画の帰りに銀子に誘われて入口に見本の出ているような食堂へ入るのを、そう不愉快にも感じなくなっていた。かえって大衆の匂いをかぐことに興味をすら覚えるのであった。それは一つは養家へ対する反感から来ているのでもあり、自身の生活の破綻はたんあきらめ忘れようとする意気地いくじなさの意地とでも言うべきものであった。
 しかし今は長いあいだ恵まれなかった銀子の生活にも少しは余裕が出来、いくらかほっとするような日々を送ることができるので、いつとはなし均平を誘っての映画館の帰りにも、いくらかの贅沢ぜいたくが許されるようになり、いしん坊の彼の時々の食慾をたすことくらいはできるのであった。もちろん食通というほど料理の趣味にふけるような柄でもなかったが、均平自身は経済的にもなるべく合理的な選択はする方であった。戦争も足かけ五年つづき物資も無くなっているには違いないが、生活のどの部面でも公定価格にまですべての粗悪な品物が吊りあげられ、商品に信用のおけない時代であり、景気のいいにまかせて、無責任をする店も少なくないように思われたが、一方購買力の旺盛おうせいなことは疑う余地もなかった。
 パンやスープが運ばれたところで、今まで煙草たばこをふかしながら、外ばかり見ていた均平は、吸差しを灰皿の縁におき、バタを取り分けた。五月の末だったが、その日はひどく冷気で、空気がじとじとしており、鼻や気管の悪い彼はいつもの癖でついくさめをしたり、ナプキンの紙で水洟みずばなをふいたりしながら、パンを※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしっていた。
「ひょっとすると今年は凶作でなければいいがね。」
 素朴そぼくで単純な性格を、今もって失わない銀子は、取越し苦労などしたことは、かつてないように見えた。幼少の時分から、相当生活にしいたげられて来た不幸な女性の一人でありながら、どうかするとお天気がにわかにわるくなり気分がひどく険しくなることはあっても、陰気になったりふさぎ込んだりするようなことは、絶対になかった。苦労性の均平は、どんな気分のくさくさする時でも、そこに明るい気持の持ち方を発見するのであった。彼女にも暗い部分が全然ないとは言えなかったが、過去を後悔したり現在を嘆いたりはしなかった。毎日の新聞はよく読むが、均平が事件の成行きを案じ、一応現実を否定しないではいられないのに反し、ともすると統制でこうむりがちな商売のやりにくさを、こぼすようなこともなかった。
「幕末には二年も続いてひどい飢饉ききんがあったんだぜ。六月にあわせを着るという冷気でね。」
 返辞のしようもないので、銀子は黙ってパンを食べていた。
 次の皿の来る間、窓の下を眺めていた均平は、ふと三台の人力車が、一台の自動車と並んで、今人足のめまぐるしい銀座の大通りを突っ切ろうとして、しばしこの通りの出端ではなに立往生しているのが目についた。そしてそれが行きすぎる間もなく、また他の一台が威勢よくやって来て、大通りを突っ切って行った。


 もちろん車は二台や三台にとどまらなかった。レストウランの食事時間と同じに、ちょうど五時が商売の許された時間なので、六時に近い今があだかも潮時でもあるらしく、ちょっと間をおいては三台五台とけ出して来る車は、みるみる何十台とも知れぬ数に上り、ともすると先がつかえるほど後から後から押し寄せて来るのであった。それはことに今日初めて見る風景でもなかったが、食事前後にわたってかなり長い時間のことなので、ナイフを使いながら窓から見下ろしている均平の目に、時節柄異様の感じを与えたのも無理はなかった。
 ここはおそらく明治時代における文明開化の発祥地で、またその中心地帯であったらしく、均平の少年期には、すでに道路に煉瓦れんがの鋪装が出来ており、馬車がレールの上を走っていた。ほとんどすべての新聞社はこの界隈かいわいに陣取って自由民権の論陣を張り、洋品店洋服屋洋食屋洋菓子屋というようなものもここが先駆であったらしく、この食堂も化粧品が本業で、わずかに店の余地でしまの綿服にたすきがけのボオイが曹達水ソーダすいの給仕をしており、手狭な風月の二階では、同じ※(「にんべん+扮のつくり」、第3水準1-14-9)いでたちの男給仕が、フランス風の料理を食いに来る会社員たちにサアビスしていた。尾張町おわりちょうの角に、ライオンというカフエが出来、七人組の美人を給仕女にやとって、慶応ボオイの金持の子息むすこや華族の若様などを相手にしていたのもそう遠いことではなかった。そのころになると、電車も敷けて各区からの距離も短縮され、草蓬々ぼうぼうたる丸の内の原っぱが、たちどころに煉瓦れんが造りのビル街と変わり、日露戦争後の急速な資本主義の発展とともに、欧風文明もようやくこの都会の面貌めんぼうを一新しようとしていた。銀座にはうまい珈琲コオヒーや菓子を食べさすうちが出来、勧工場かんこうばの階上に尖端的せんたんてきなキャヴァレイが出現したりした。やがてデパートメントストアが各区域の商店街を寂れさせ、享楽機関が次第に膨脹するこの大都会の大衆を吸引することになるであろう。