仮装人物(かそうじんぶつ)


 庸三ようぞうはその後、ふとしたことから踊り場なぞへ入ることになって、クリスマスの仮装舞踏会へも幾度か出たが、ある時のダンス・パアティの幹事から否応いやおうなしにサンタクロオスの仮面をかぶせられて当惑しながら、煙草たばこを吸おうとしてめんからあごを少し出して、ふとマッチをると、その火がひげの綿毛に移って、めらめらと燃えあがったことがあった。その時も彼は、これからここにたたき出そうとする、心のしわのなかの埃塗ほこりまぶれの甘い夢や苦いしる古滓ふるかすについて、人知れずそのころの真面目まじめくさい道化姿をおもい出させられて、苦笑せずにはいられなかったくらい、扮飾ふんしょくされ歪曲わいきょくされた――あるいはそれが自身の真実の姿だかも知れない、どっちがどっちだかわからない自身を照れくさく思うのであった。自身が実際首を突っ込んで見て来た自分と、その事件について語ろうとするのは、何もそれが楽しい思い出になるからでもなければ、現在の彼の生活環境に差し響きをもっているわけでもないようだから、そっと抽出ひきだしのすみっこの方に押しこめておくことが望ましいのであるが、正直なところそれも何か惜しいような気もするのである。ずっと前に一度、ふと舞踏場で、庸三は彼女とって、一回だけトロットを踊ってみた時、「たのしくない?」と彼女は言うのであったが、何の感じもおこらなかった庸三は、そういって彼をいたわっている彼女をうらやましく思った。彼はえきってしまった古創ふるきずあとに触わられるような、心持ち痛痒いたがゆいような感じで、すっかりちまたの女になりきってしまって、悪くぶくぶくしている彼女の体を引っ張っているのが物憂ものうかった。

 今庸三は文字どおり胸のときめくようなある一夜を思い出した。
 その時庸三は、海風の通って来る、ある郊外のコッテイジじみたホテルへ仕事をもって行こうとして、ちょうど彼女がいつも宿を取っていた近くの旅館から、最近母を亡くして寂しがっている庸三の不幸な子供達の団欒だんらんにぎわせるために、時々遊びに来ていた彼女――こずえ葉子を誘った。
 庸三は松川のマダムとして初めて彼女を見た瞬間から、その幽婉ゆうえんな姿に何か圧倒的なものをほのかに感じていたのではあったが、彼女がそんなに接近して来ようとは夢にも思っていなかった。松川はその時お召ぞっきのぞろりとした扮装ふんそうをして、いにしえの絵にあるような美しい風貌ふうぼうの持主であったし、連れて来た女の子も、お伽噺とぎばなしのなかに出て来る王女のように、純白な洋服を着飾らせて、何か気高い様子をしていた。手狭な悒鬱うっとうしい彼の六畳の書斎にはとてもそぐわない雰囲気ふんいきであった。彼らは遠くからわざわざ長い小説の原稿をもって彼を訪ねて来たのであった。それは二年前の陽春の三月ごろで、庸三の庭は、ちょうどこぶしの花の盛りで、陰鬱いんうつな書斎の縁先きが匂いやかな白い花のくさむらから照りかえす陽光に、春らしい明るさをもたらせていた。
 庸三は部屋の真中にある黒い卓の片隅かたすみで、ぺらぺらと原稿紙をめくって行った。原稿は乱暴な字で書きなぐられてあったが、何か荒い情熱が行間にほとばしっているのを感じた。
「大変な情熱ですね。」
 彼は感じたままをつぶやいて、後で読んでみることを約束した。
「大したブルジョウアだな。」
 彼はそのころまだ生きていて、来客にお愛相あいそのよかった妻に話した。作品もどうせブルジョウア・マダムの道楽だくらいに思って、それには持前の無精も手伝い、格にはまらない文章も文字も粗雑なので、ただ飛び飛びにあっちこっち目を通しただけで、通読はしなかったが、家庭に対する叛逆はんぎゃく気分だけは明らかに受け取ることができた。彼は多くの他の場合と同じく、この幸福そうな若い夫婦たちのために、躊躇ちゅうちょなく作品を否定してしまった。物質と愛に恵まれた夫婦の生活が、その時すでに破産の危機にひんしていようなどとは夢にも思いつかなかった。
 翌日松川が返辞をききに来た時、夫人が文学道に踏み出すことは、事によると家庭を破壊することになりはしないかという警告を与えて帰したのだったが、その時大学構内の池のほとりで子供と一緒に、原稿の運命を気遣きづかっていた妻のそばへ寄って行った葉子の良人おっとは、彼女の自尊心を傷つけるのをおそれて、用心ぶかく今の成行きを話したものらしかった。
「葉子、お前決して失望してはいけないよ。ただあの原稿が少し奔放すぎるだけなんだよ。文章も今一とり錬らなくちゃあ。」