仮装人物(かそうじんぶつ)

「拝見したうえ何とかしましょう。さっそく原稿をよこして下さい。」
 ちょうど卓を囲んで、庸三夫婦と一色と葉子とが、顔を突きあわせている時であったが、間もなく一色と葉子が一緒にいとまを告げた。
「あの二人はどうかなりそうだね。」
「かも知れませんね。」
 後で庸三はそんな気がして、加世子と話したのであったが、そのころ葉子はすでに良人おっとや子供と別れ田端の家を引き払って、牛込うしごめ素人家しろうとやの二階に間借りすることになっていた。美容術を教わりに来ていた彼女の妹も、彼女たちの兄が学生時代に世話になっていたというその家に同棲どうせいしていた。葉子は一色の来ない時々、相変らずそこからカフエに通っているものらしかったが、それが一色の気に入らず、どうかすると妹が彼女を迎いに行ったりしたものだが、浮気な彼女の目には、いつもそこに集まって陽気にはしゃいでいる芸術家仲間の雰囲気ふんいきも、てがたいものであった。
 庸三は耳にするばかりで、彼女のいるあいだ一度もそのカフエを訪ねたことがなかった。それに連中の間を泳ぎまわっている葉子のうわさもあまりかんばしいものではなかった。

 加世子の訃音ふいんを受け取った葉子が、半年の余も閉じもっていた海岸の家を出て、東京へ出て来たのは、加世子の葬式がすんで間もないほどのことであった。
 加世子はその一月の二日に脳溢血のういっけつたおれたのだったが、その前の年の秋に、一度、健康そうにふとった葉子が久しぶりにひょっこり姿を現わした。彼女は一色とそうした恋愛関係をつづけている間に、彼を振り切って、とかく多くの若い女性のあこがれの的であった、画家の山路草葉やまじそうようのもとに走った。そして一緒に美しい海のほとりにある葉子の故郷の家を訪れてから、東京の郊外にある草葉の新らしい住宅で、たちまち結婚生活に入ったのだった。この結婚は、好感にしろ悪感にしろ、とにかく今まで彼女の容姿に魅惑を感じていた人たちにも、微笑ほほえましくうなずけることだったに違いなかった。
 葉子は江戸ッはだの一色をも好いていたのだったが、芸術と名声に特殊の魅力を感じていた文学少女型の彼女のことなので、到頭出版されることになった処女作の装釘そうていを頼んだのが機縁で、その作品に共鳴した山路の手紙を受け取ると、たちどころに吸いつけられてしまった。これこそ自分がかねがね捜していた相手だという気がした。そしてそうなると、我慢性のない娘が好きな人形を見つけたように、それを手にしないと承知できなかった。自分のような女性だったら、十分彼をたのしませるに違いないという、自身の美貌びぼうへの幻影が常に彼女の浮気心をあおりたてた。
 ある夜も葉子は、山路と一緒に大川ばたのある意気造りの家の二階の静かな小間で、夜更よふけのの音をきながら、芸術や恋愛の話にふけっていた。故郷の彼女の家の後ろにも、海へ注ぐ川の流れがあって、水が何となく懐かしかった。葉子は幼少のころ、澄んだその流れの底に、あまり遠く押し流されないようにひもで体を岸のくいに結わえつけた祖母の死体を見た時の話をしたりした。年を取っても身だしなみを忘れなかった祖母が、生きるのに物憂ものうくなっていつも死に憧れていた気持をも、彼女一流の神秘めいたことばで話していた。庸三の子供が葉子を形容したように彼女は鳥海山ちょうかいさん谿間たにまに生えた一もとの白百合しらゆりが、どうかしたはずみに、材木か何かのなかに紛れこんで、都会へ持って来られたように、自然の生息いぶきそのままの姿態でそれがひとしお都会では幽婉ゆうえんに見えるのだったが、それだけまた葉子は都会離れしているのだった。
 山路と二人でそうしている時に、表の方でにわかに自動車の爆音がひびいたと思うと、ややあって誰か上がって来る気勢けはいがして妹の声が廊下から彼女を呼んだ。――葉子はそっと部屋を出た。妹は真蒼まっさおになっていた。一色が来て、すさまじい剣幕で、葉子のことを怒っているというのだった。
 葉子は困惑した。
「そうお。じゃあ私が行って話をつける。」
「うっかり行けないわ。姉さんが殺されるかも知れないことよ。」
 そんな破滅になっても、葉子は一色と別れきりになろうと思っていなかった。たとい山路の家庭へ入るにしても、一色のようなパトロン格の愛人を、見失ってはいけないのであった。
 葉子が妹と一緒に宿へ帰って来るのを見ると、部屋の入口で一色がいきなり飛びついて来た。――しばらく二人は離れなかった。やがて二人は差向いになった。一色は色がかわっていた。女から女へと移って行く山路の過去と現在を非難して、涙を流して熱心に彼女を阻止しようとした。葉子も黙ってはいなかった。優しい言葉でなだめ慰めると同時に、妻のある一色への不満を訴えた。しゃべりだすと油紙に火がついたように、べらべらと止め度もなく田舎訛いなかなまりの能弁が薄いくちびるいてほとばしるのだった。しまいに彼女は哀願した。