黴(かび)


 笹村ささむらが妻の入籍を済ましたのは、二人のなかにうまれた幼児の出産届と、ようやく同時くらいであった。
 家を持つということがただ習慣的にしか考えられなかった笹村も、そのころ半年たらずの西の方の旅から帰って来ると、これまで長いあいだいやいや執着していた下宿生活のさびれたさまが、一層明らかに振りかえられた。あっちこっち行李こうりを持ち廻って旅している間、笹村の充血したような目に強く映ったのは、若い妻などを連れて船へ入り込んで来る男であった。九州の温泉宿ではまた無聊ぶりょうに苦しんだあげく、湯につかりすぎて熱病をわずらったが、時々枕頭まくらもとへ遊びに来る大阪下りの芸者と口をくほか、一人も話し相手がなかった。
「どういうのがえいのんや。私が気に入りそうなのを見立てて上げるよって……東京ものは蓮葉はすはで世帯持ちが下手へたやと言うやないか。」笹村が湯にあたってあおい顔をして一トまず大阪の兄のところへ引き揚げて来たとき、留守の間に襟垢えりあかのこびりついた小袖こそでや、袖口の切れかかった襦袢じゅばんなどをきちんと仕立て直しておいてくれたあによめはこう言って、早く世帯を持つように勧めた。
 笹村はもう道頓堀どうとんぼりにも飽いていた。せせっこましい大阪の町もいとわしいようで、じきに帰り支度をしようとしたが、長く離れていた東京の土を久しぶりで踏むのが楽しいようでもあり、何だか不安のようでもあった。帰路立ち寄った京都では、旧友がその愛した女と結婚して持った楽しげな家庭ぶりをも見せられた。
「我々の仲間では君一人が取り残されているばかりじゃないか。」
 友達は長煙管ながぎせる煙草たばこをつめながら、静かな綺麗きれいな二階の書斎で、温かそうな大ぶりな厚い蒲団ふとんのうえに坐って、何やら蒔絵まきえをしてある自分持ちの莨盆たばこぼんを引き寄せた。そこからは紫だったような東山のまるッこいせなかが見られた。
「京の舞妓まいこだけは一見しておきたまえ。」友はそれから、新樹の蔭に一片二片ひとひらふたひらずつ残った桜の散るのを眺めながら、言いかけたが、笹村の余裕のない心には、京都というもののにおいをいでいるひますらなかった。それで二人一緒に家へかえると、妻君が敷いてくれた寝所ねどこへ入って、酔いのさめた寂しい頭を枕につけた。
 東京で家を持つまで、笹村は三、四年住み古したもとの下宿にいた。下宿では古机や本箱がまた物置部屋から取り出されて、口金のびたようなランプが、また毎晩彼の目の前に置かれた。坐りつけた二階のその窓先にはかえでの青葉が初夏の風にそよいでいた。
 笹村は行きがかり上、これまでたずさわっていた仕事を、ようやく真面目に考えるような心持になっていた。机のうえには、新しい外国の作が置かれ、新刊の雑誌なども散らかっていた。彼は買いつけのある大きな紙屋の前に立って、しばらく忘られていた原稿紙を買うと、また新しくその匂いをかぎしめた。
 けれど、ざらざらするような下宿の部屋に落ち着いていられなかった笹村は、晩飯のぜんを運ぶ女中の草履ぞうりの音が、廊下にばたばたするころになると、いらいらするような心持で、ふらりと下宿を出て行った。笹村は、大抵これまで行きつけたような場所へ向いて行ったが、どこへ行っても、以前のような興味を見出さなかった。始終遊びつけた家では、相手の女が二月も以前にそこを出て、根岸ねぎしの方に世帯を持っていた。笹村はがらんとしたそのうち段梯子だんばしごを踏むのがものうげであった。他の女が占めているその部屋へ入って、長火鉢ながひばちの傍へ坐ってみても、なつかしいような気もしないのに失望した。聞きなれたこの里のうたや、廊下を歩く女の草履の音を聞いても、心に何の響きも与えられなかった。
「山田君が今度建てた家の一つへ、是非君に入って頂きたいんだがね。」と友達に勧められた時、笹村はよろこんで承諾した。


 その家は、笹村が少年時代の学友であって、頭が悪いのでそのころまでも大学に籍をおいていたK―が、国から少しまとまった金を取り寄せて、東京で永遠の計を立てるつもりで建てた貸家の一つであった。切りひらいた地面に二むね四軒の小体こていな家が、ようやく壁が乾きかかったばかりで、裏には鉋屑かんなくずなどが、雨にれて石炭殻を敷いた湿々じめじめする地面にへばり着いていた。
 笹村は旅から帰ったばかりで、家を持つについて何の用意も出来なかった。笹村は出京当時世話になったことのある年上の友達が、高等文官試験を受けるとき、その試験料をこしらえてやった代りに、遠国へ赴任すると言って置いて行った少しばかりのガラクタが、その男の親類の家に預けてあったことを想い出して、それを一時しのぎに使うことにした。開ける時キイキイいやな音のする安箪笥やすだんす、そんなものは、うんとたまっていた古足袋ふるたびや、あかのついた着物をじ込んで、まだ土の匂いのする六畳の押入れへ、上と下と別々にして押し込んだ。り減った当り棒、縁のささくれ立った目笊めざる、絵具の赤々したどんぶりなどもあった。