一
最初におかれた
下谷の家から、お
増が
麹町の方へ移って来たのはその年の秋のころであった。
自由な体になってから、初めて落ち着いた下谷の家では、お増は春の末から暑い夏の
三月を過した。
そこは
賑やかな広小路の通りから、少し裏へ入ったある路次のなかの小さい
平家で、ついその向う前には男の知合いの家があった。
出て来たばかりのお増は、そんなに着るものも持っていなかった。
遊里の風がしみていたから、口の利き方や、
起居などにも落着きがなかった。広い大きな建物のなかから、初めてそこへ移って来たお増の目には、
風鈴や何かと一緒に、上から隣の
老爺の
禿頭のよく見える
黒板塀で仕切られた、じめじめした狭い庭、水口を開けると、すぐ向うの家の茶の間の話し声が、手に取るように聞える台所などが、鼻がつかえるようで、窮屈でならなかった。
その当座昼間など、その家の茶の間の
火鉢の前に坐っていると、お増は寂しくてしようがなかった。がさがさした縁の板敷きに
雑巾がけをしたり、火鉢を
磨いたりして、湯にでも入って来ると、後はもう何にもすることがなかった。長いあいだ居なじんだ陽気な家の
状が、目に浮んで来た。男は折り
鞄などを提げて、昼間でも会社の帰りなどに、ちょいちょいやって来た。日が暮れてから、家から出て来ることもあった。男は女房持ちであった。
お増は髪を
丸髷などに結って、台所で酒の支度をした。二人で広小路で買って来た
餉台のうえには、男の好きな

や、
鯛煎餅の
炙ったのなどがならべられた。近所から取った、
鰻の
丼を二人で食べたりなどした。
いつも肩のあたりの色の
褪めた背広などを着込んで、通って来たころから見ると、男はよほど金廻りがよくなっていた。
米琉の
絣の
対の
袷に模様のある角帯などをしめ、金縁眼鏡をかけている男のきりりとした様子には、そのころの書生らしい面影もなかった。
酒の切揚げなどの速い男は、来てもでれでれしているようなことはめったになかった。会社の仕事や、
金儲けのことが、始終頭にあった。そして床を離れると、じきに時計を見ながらそこを出た。閉めきった入口の板戸が急いで開けられた。
男が帰ってしまうと、お増の心はまた
旧の寂しさに
反った。女房持ちの男のところへ来たことが、悔いられた。
「お神さんがないなんて、私を
瞞しておいて、あなたもひどいじゃないの。」
来てから間もなく、向うの家のお婆さんからそのことを
洩れ聞いたときに、お増はムキになって男を責めた。
「誰がそんなことを言った。」
男は
媚びのある優しい目を

ったが、驚きもしなかった。
「
嘘だよ。」
「みんな聞いてしまいましたよ。前に京都から女が
訪ねて来たことも、どこかの後家さんと懇意であったことも、ちゃんと知ってますよ。」
「へへ。」と、男は笑った。
「その京都の女からは、今でも時々何か贈って来るというじゃありませんか。」
「くだらないこといってら。」
「私はうまく瞞されたんだよ。」
男は床の上に起き上って、
襯衣を着ていた。お増は
側に立て
膝をしながら、
巻莨をふかしていた。
睫毛の長い、疲れたような目が、充血していた。
露出しの男の膝を
抓ったり、莨の火をおっつけたりなどした。男はびっくりして
跳ねあがった。
二
しかし男も、とぼけてばかりいるわけには行かなかった。三、四年前に一緒になったその細君が、自分より二つも年上であること、書生のおりそこに世話になっていた時分から、長いあいだ自分を助けてくれたことなどを話して聞かした。そのころその女は少しばかりの金をもって、母親と一緒に暮していた。
「それ御覧なさい。世間体があるから当分別にいるなんて、私を瞞しておいて。」
二人は長火鉢の側へ来て、茶を飲んでいた。
餉台におかれたランプの
灯影に、薄い
下唇を
噛んで、考え深い目を
見据えている女の、
輪廓の正しい顔が蒼白く見られた。
「けどその
片はじきにつくんだ。それにあの女には、
喘息という持病もあるし、とても一生暮すてわけに行きゃしない。」
男は筒に
煙管を
収いこみながら、
呟いた。
「喘息ですって。喘息って何なの。」
「
咽喉がぜいぜいいう病気さ。」
「ううん、そんなお客があったよ。あれか。」