馬の脚(うまのあし)

 この話の主人公は忍野半三郎おしのはんざぶろうと言う男である。生憎あいにく大した男ではない。北京ペキン三菱みつびしに勤めている三十前後の会社員である。半三郎は商科大学を卒業したのち二月目ふたつきめに北京へ来ることになった。同僚どうりょう上役うわやくの評判は格別いと言うほどではない。しかしまた悪いと言うほどでもない。まず平々凡々たることは半三郎の風采ふうさいの通りである。もう一つ次手ついでにつけ加えれば、半三郎の家庭生活の通りである。
 半三郎は二年前にある令嬢と結婚した。令嬢の名前は常子つねこである。これも生憎あいにく恋愛結婚ではない。ある親戚の老人夫婦に仲人なこうどを頼んだ媒妁ばいしゃく結婚である。常子は美人と言うほどではない。もっともまた醜婦しゅうふと言うほどでもない。ただまるまるふとったほおにいつも微笑びしょうを浮かべている。奉天ほうてんから北京ペキンへ来る途中、寝台車の南京虫なんきんむしされた時のほかはいつも微笑を浮かべている。しかももう今は南京虫に二度とされる心配はない。それは××胡同ことうの社宅の居間いま蝙蝠印こうもりじるし除虫菊じょちゅうぎく二缶ふたかん、ちゃんと具えつけてあるからである。
 わたしは半三郎の家庭生活は平々凡々を極めていると言った。実際その通りに違いない。彼はただ常子と一しょに飯を食ったり、蓄音機ちくおんきをかけたり、活動写真を見に行ったり、――あらゆる北京中ペキンじゅうの会社員と変りのない生活をいとなんでいる。しかし彼等の生活も運命の支配にれるわけにはかない。運命はある真昼の午後、この平々凡々たる家庭生活の単調を一撃のもとにうちくだいた。三菱みつびし会社員忍野半三郎は脳溢血のういっけつのために頓死とんししたのである。
 半三郎はやはりその午後にも東単牌楼トンタヌピイロオの社の机にせっせと書類を調べていた。机を向かい合わせた同僚にも格別異状などは見えなかったそうである。が、一段落ついたと見え、巻煙草まきたばこを口へくわえたまま、マッチをすろうとする拍子ひょうしに突然俯伏うつぶしになって死んでしまった。いかにもあっけない死にかたである。しかし世間は幸いにも死にかたには余り批評をしない。批評をするのは生きかただけである。半三郎もそのために格別非難を招かずにすんだ。いや、非難どころではない。上役うわやくや同僚は未亡人びぼうじん常子にいずれも深い同情をひょうした。
 同仁どうじん病院長山井博士やまいはかせ診断しんだんに従えば、半三郎の死因は脳溢血のういっけつである。が、半三郎自身は不幸にも脳溢血とは思っていない。第一死んだとも思っていない。ただいつか見たことのない事務室へ来たのに驚いている。――
 事務室の窓かけは日の光の中にゆっくりと風に吹かれている。もっとも窓の外は何も見えない。事務室のまん中の大机には白い大掛児タアクワルを着た支那人シナじんが二人、差し向かいに帳簿をらべている。一人ひとりはまだ二十はたち前後であろう。もう一人はやや黄ばみかけた、長い口髭くちひげをはやしている。
 そのうちに二十前後の支那人は帳簿へペンを走らせながら、目も挙げずに彼へ話しかけた。
「アアル・ユウ・ミスタア・ヘンリイ・バレット・アアント・ユウ?」
 半三郎はびっくりした。が、出来るだけ悠然ゆうぜん北京官話ペキンかんわの返事をした。「我はこれ日本にっぽん三菱公司みつびしこうしの忍野半三郎」と答えたのである。
「おや、君は日本人ですか?」
 やっと目を挙げた支那人はやはり驚いたようにこう言った。年とったもう一人の支那人も帳簿へ何か書きかけたまま、茫然ぼうぜんと半三郎を眺めている。
「どうしましょう? 人違いですが。」
「困る。実に困る。第一革命かくめい以来一度もないことだ。」
 年とった支那人はおこったと見え、ぶるぶる手のペンをふるわせている。
「とにかく早く返してやり給え。」
「君は――ええ、忍野君ですね。ちょっと待って下さいよ。」
 二十はたち前後の支那人は新らたに厚い帳簿をひろげ、何か口の中に読みはじめた。が、その帳簿をとざしたと思うと、前よりも一層驚いたように年とった支那人へ話しかけた。
駄目だめです。忍野半三郎君は三日前みっかまえに死んでいます。」
「三日前に死んでいる?」
「しかもあしくさっています。両脚りょうあしともももから腐っています。」
 半三郎はもう一度びっくりした。彼等の問答に従えば、第一に彼は死んでいる。第二に死後三日みっかている。第三に脚は腐っている。そんな莫迦ばかげたことのあるはずはない。現に彼の脚はこの通り、――彼は脚を早めるが早いか、思わずあっと大声を出した。大声を出したのも不思議ではない。折り目の正しい白ズボンに白靴しろぐつをはいた彼の脚は窓からはいる風のために二つとも斜めになびいている! 彼はこう言う光景を見た時、ほとんど彼の目を信じなかった。が、両手にさわって見ると、実際両脚とも、腿から下は空気を掴むのと同じことである。半三郎はとうとうしりもちをついた。同時にまた脚は――と言うよりもズボンはちょうどゴム風船のしなびたようにへなへなとゆかの上へ下りた。