福翁自伝(ふくおうじでん)

 慶應義塾の社中にては、西洋の学者に往々みずから伝記を記すの例あるをもって、兼てより福澤先生自伝の著述を希望して、親しくこれを勧めたるものありしかども、先生の平生はなはだ多忙にして執筆の閑を得ずそのままに経過したりしに、一昨年の秋、る外国人のもとめに応じて維新前後の実歴談を述べたる折、と思い立ち、幼時より老後に至る経歴の概略を速記者に口授して筆記せしめ、みずから校正を加え、福翁自伝と題して、昨年七月より本年二月までの時事新報に掲載したり。本来この筆記は単に記憶に存したる事実を思い出ずるまゝに語りしものなれば、あたかも一場の談話にして、もとより事の詳細をくしたるにあらず。れば先生のかんがえにては、新聞紙上に掲載を終りたる後、らにみずから筆をとりてその遺漏いろうを補い、又後人の参考のめにとて、幕政の当時親しく見聞したる事実にり、我国開国の次第より幕末外交の始末を記述して別に一編とし、自伝の後に付するの計画にして、すでにその腹案も成りたりしに、昨年九月中、にわかに大患にかかりてその事を果すを得ず。誠に遺憾なれども、今後先生の病いよ/\全癒の上は、兼ての腹案を筆記せしめて世におおやけにし、以て今日の遺憾を償うことあるべし。

明治三十二年六月
時事新報社 石河幹明いしかわみきあき 記
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 福澤諭吉の父は豊前ぶぜん中津奥平おくだいら藩の士族福澤百助ひゃくすけ、母は同藩士族、橋本浜右衛門はしもとはまえもんの長女、名を於順おじゅんと申し、父の身分はヤット藩主に定式じょうしきの謁見が出来るとうのですから足軽あしがるよりは数等よろしいけれども士族中の下級、今日で云えばず判任官の家でしょう。藩で云う元締役もとじめやくを勤めて大阪にある中津藩の倉屋敷くらやしきに長く勤番して居ました。れゆえ家内残らず大阪に引越ひきこして居て、私共わたしどもは皆大阪で生れたのです。兄弟五人、総領の兄の次に女の子が三人、私は末子ばっし。私の生れたのは天保五年十二月十二日、父四十三歳、母三十一歳の時の誕生です。ソレカラ天保七年六月、父が不幸にして病死。跡にのこるは母一人に子供五人、兄は十一歳、私はかぞえ年で三つ。くなれば大阪にも居られず、兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました。

兄弟五人中津の風に合わず

さて中津に帰てから私の覚えて居ることを申せば、私共の兄弟五人はドウシテも中津人と一所いっしょ混和こんかすることが出来ない、その出来ないと云うのは深い由縁も何もないが、従兄弟いとこ沢山たくさんある、父方ててかたの従兄弟もあれば母方ははかたの従兄弟もある。マア何十人と云う従兄弟がある。又近所の小供も幾許いくらもある、あるけれどもその者等ものらとゴチャクチャになることは出来ぬ。第一言葉が可笑おかしい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「そうじゃちこ」とう所を、私共は「そうでおます」なんと云うようなけで、お互に可笑おかしいからず話が少ない。れから又母はと中津生れであるが、長く大阪に居たから大阪のふうに慣れて、小供の髪の塩梅式あんばいしき、着物の塩梅式、一切大阪風の着物よりほかにない。有合ありあいの着物を着せるから自然中津の風とは違わなければならぬ。着物が違い言葉が違うと云う外には何も原因はないが、子供の事だから何だか人中ひとなかに出るのを気恥かしいようにおもって、自然、内に引込んで兄弟同士遊んで居ると云うような風でした。

儒教主義の教育

夫れからう一つこれに加えると、私の父は学者であった。普通あたりまえの漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持かねもち加島屋かじまやこういけというような者に交際して藩債の事をつかさどる役であるが、元来父はコンナ事が不平でたまらない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいというかんがえであるに、ぞんかけもなく算盤そろばんとって金の数を数えなければならぬとか、藩借はんしゃく延期の談判をしなければならぬとかう仕事で、今の洋学者とはおおいに違って、昔の学者は銭を見るもけがれると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云うけであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、う云うことがある。私は勿論もちろん幼少だから手習てならいどころの話でないが、う十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷くらやしきの中に手習の師匠があって、其家そこには町家ちょうかの小供も来る。其処そこでイロハニホヘトを教えるのはよろしいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然あたりまえの話であるが、その事を父が聞て、しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせるとうのはもってのほかだ。う処に小供はやって置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速さっそく取返せといって取返した事があると云うことは、のちに母に聞きました。何でも大変やかましい人物であったことは推察が出来る。その書遺かきのこしたものなどを見れば真実正銘しょうみょうの漢儒で、こと堀河ほりかわ伊藤東涯いとうとうがい先生が大信心だいしんじんで、誠意誠心、屋漏おくろうじずということばか心掛こころがけたものと思われるから、その遺風はおのずから私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合つきあいは少く、あけても暮れてもただ母の話を聞くばかり、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であるとおもって、骨肉こつにく従兄弟いとこに対してさえ、心の中には何となくこれ目下めした見下みくだして居て、夫等それらの者のすることは一切とがめもせぬ、多勢たぜい無勢ぶぜい咎立とがめだてをしようといっても及ぶ話でないとあきらめて居ながら、心の底には丸で歯牙しがに掛けずに、わば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、饒舌しゃべりもし、飛びわりね廻わりして、至極しごく活溌にてありながら、木に登ることが不得手ふえてで、水を泳ぐことが皆無かいむ出来ぬと云うのも、兎角とかく同藩中の子弟と打解うちとけて遊ぶことが出来ずに孤立した所為せいでしょう。