続西方の人(ぞくさいほうのひと)

     1 再びこの人を見よ

 クリストは「万人の鏡」である。「万人の鏡」と云ふ意味は万人のクリストにならへと云ふのではない。たつた一人のクリストの中に万人の彼等自身を発見するからである。わたしはわたしのクリストを描き、雑誌の締め切日の迫つた為にペンをなげうたなければならなかつた。今は多少のひまのある為にもう一度わたしのクリストを描き加へたいと思つてゐる。誰もわたしの書いたものなどに、――ことにクリストを描いたものなどに興味を感ずるものはないであらう。しかしわたしは四福音書の中にまざまざとわたしに呼びかけてゐるクリストの姿を感じてゐる。わたしのクリストを描き加へるのもわたし自身にはやめることは出来ない。

     2 彼の伝記作者

 ヨハネはクリストの伝記作者中、最も彼自身にびてゐるものである。野蛮な美しさにかがやいたマタイやマコに比べれば、――いや、巧みにクリストの一生を話してくれるルカに比べてさへ、近代に生まれた我々には人工の甘露味を味はさずにはかない。しかしヨハネもクリストの一生の意味の多い事実を伝へてゐる。我々は、ヨハネのクリストの伝記に或苛立いらだたしさを感じるであらう。けれども三人の伝記作者たちに或魅力も感じられるであらう。人生に失敗したクリストは独特の色彩を加へない限り、容易に「神の子」となることは出来ない。ヨハネはこの色彩を加へるのに少くとも最も当代には、up to date の手段をとつてゐる。ヨハネの伝へたクリストはマコやマタイの伝へたクリストのやうに天才的飛躍を具へてゐない。が、荘厳にも優しいことは確かである。クリストの一生を伝へるのに何よりも簡古を重んじたマコは恐らく彼の伝記作者中、最もクリストを知つてゐたであらう。マコの伝へたクリストは現実主義的に生き生きしてゐる。我々はそこにクリストと握手し、クリストを抱き、――更に多少の誇張さへすれば、クリストの髯の匂を感じるであらう。しかし荘厳にもいたはりの深いヨハネのクリストもしりぞけることは出来ない。かく彼等の伝へたクリストに比べれば、後代の伝へたクリストは、――殊に彼をデカダンとした或ロシア人のクリストは徒らに彼をきずつけるだけである。クリストは一時代の社会的約束を蹂躙じうりんすることを顧みなかつた。(売笑婦や税吏みつぎとりらい病人はいつも彼の話し相手である。)しかし天国を見なかつたのではない。クリストを l'enfant に描いた画家たちはおのづからかう云ふクリストに憐みに近いものを感じてゐたであらう。(それは母胎を離れた後、「唯我独尊」の獅子吼ししくをした仏陀よりもはるかによりのないものである。)けれども幼児だつたクリストに対する彼等の憐みは多少にもしろ、デカダンだつたクリストに対する彼の同情よりも勝つてゐる。クリストは如何に葡萄酒に酔つても、何か彼自身の中にあるものは天国を見せずにはかなかつた。彼の悲劇はその為に、――単にその為に起つてゐる。或ロシア人は或時のクリストの如何いかに神に近かつたかを知つてゐない。が、四人の伝記作者たちはいづれもこの事実に注目してゐた。

     3 共産主義者

 クリストはあらゆるクリストたちのやうに共産主義的精神を持つてゐる。若し共産主義者の目から見るとすれば、クリストの言葉はことごとく共産主義的宣言に変るであらう。彼に先立つたヨハネさへ「二つの衣服うはぎを持てる者は持たぬ者に分け与へよ」と叫んでゐる。しかしクリストは無政府主義者ではない。我々人間は彼の前におのづから本体をあらはしてゐる。(もつとも彼は我々人間を操縦することは出来なかつた、――或は我々人間に操縦されることは出来なかつた。それは彼のヨセフではない、聖霊の子供だつた所以ゆゑんである。)しかしクリストの中にあつた共産主義者を論ずることはスヰツルに遠い日本では少くとも不便を伴つてゐる。少くともクリスト教徒たちの為に。

     4 無抵抗主義者

 クリストは又無抵抗主義者だつた。それは彼の同志さへ信用しなかつた為である。近代では丁度トルストイの他人の真実を疑つたやうに。――しかしクリストの無抵抗主義は何か更にやはらかである。静かに眠つてゐる雪のやうに冷かではあつても柔かである。……

     5 生活者

 クリストは最速度の生活者である。仏陀は成道じやうどうする為に何年かを雪山の中に暮らした。しかしクリストは洗礼を受けると、四十日の断食の後、たちまち古代のジヤアナリストになつた。彼はみづから燃え尽きようとする一本の蝋燭らふそくにそつくりである。彼の所業やジヤアナリズムは即ちこの蝋燭の蝋涙らふるゐだつた。