青白き夢(あおじろきゆめ)

 この夜も、明けるのだと思った。
 お葉は目を明けたまゝ、底深い海底でもきはめるやうに、灰色の天井を身ゆるぎもせず、見つめたまゝ、
『お母さん!』低く呼んだ。
 淡黄色い、八燭の電気の光りのなかに、母親は重苦しくひそやかに動いて、ベッドのそばに手をかけた。
『苦しいのかい。水が呑みたい?』
 お葉は、なほ天井を見つめたまゝ、何といってよいか、只悲しかった。
 お母さんは、なんでも知ってゝ呉れる。私に解らない心をも、お母さんは知ってて呉れる。わたしは、只お母さんの声が聞きたかったのだ。動くのが見たかったのだ。
 お葉は、なほ黙って居る。
『お前、足が痛むのかい。』
『いゝえ。』彼女は、はっきりと答へた。
『お母さん、今日も夜があけるのでせうね。』
『あゝ、もうぢき明けるだらうから、なるべく気を安めて眠った方がいゝよ。』
 彼女は、その言葉を聞きながら、気力なさゝうに目蓋まぶたを閉ぢた。もう、何も考へる事は出来ない。この夜も明けるんだと思へば、彼女の心に思ふ事も、見ることもいらない。
 母親は、娘の目蓋の静かに閉ぢるのを見た。そして疲れて眠りに捕はれたのだらうと、そっと身を引いて、布団の上に坐った。
 そして、枕を引きよせながら、自分の心を強ひて盲目めくらにしようと、くぼんだ眼を閉ぢて、うとうととなって行った。
 お葉は、またいつか目を閉ぢたまゝ、気力なく青白く疲れた心のうちに、只、この夜もあけるんだと思ひつゞけた。そして、そのまゝにこの夜もあけるんだと思ひつゞけた心のなかに引き入れられて、茫と意識を失ひかける。
 やがて、彼女はいつか目を見開いて、天井を見てゐた。いつ目蓋が開いたのか、自分にもわからない。只、ぢっと見てゐる。そして、物悲しい心のうちに、
『お母さん!』と呼んだ。
 しかし、その声は彼女の唇をもれなかったので、彼女の両のひとみの周囲には矢張り淡黄な光りが一ぱいにたゞよって、その静寂は一つも動かなかった。そして母親の身動きだに、彼女の頭に感じられない。お葉の心には、遣瀬ない波動が起った。そして、『お母さん!』と再び呼んだ。彼女のぢっとなほ天井を見つめてゐる二つの瞳は、自分の乾いた唇が、微かにふるへたのを見た。
 そして室内の空気が静かに、けれども大きく動いたのを見た。お葉は安心した。
 母親が[#「 母親が」は底本では「母親が」]、またひそかに起き出て来る気配がする。やがて母親の手が、また静かにベッドの毛布にふれた。
 お葉は、また何を言ひ出すのやら解らない、母親が、只動いたといふだけで、彼女の心は自分におそひ掛らうとする魔を払ひのけたやうな気がした。そしてこれから聞いて見ようとするのは、この夜もいつもの様に明けるんだらうといふ事だけであった。
『お前、さう目が覚めちゃいけないねえ。』
 母親は、静かにわが子の青白い頬から解けかゝった頸のあたりにふるへてる毛条けすぢを見ながら言った。併し、それは反って自分の心に向って、あまりに多い煩悩の心を押へるやうに考へられた。お葉は黙したまゝ、衿元まで掛けられてあった毛布を静かに胸の下へ押しやった。
 お葉の眼には淡い幕がかゝったやうに、すべての物がはっきりと見えない。睫毛まつげは乾いて涙の露も宿ってないのだけれども、すべての物が茫とうるんで見える。
 母親はそっとベッドの前を通りぬけた。そしてドアを押して廊下に出た。足音がバタバタと遠ざかって聞える。
 彼女は、目の前に黒い影をチラと見たまゝ、又瞳は自然に閉ぢられて行った。そしてまた彼女の弾力のない瞳が細く開かれた時、また黒い影がチラとベッドの前を通った。けれども呼び止めようとは思はなかった。
 母親は、うす暗い廊下を、自分の草履の音にせき立てられて便所はばかりに行ったが、月の光が彼女の心をかきむしるやうに、窓の外にさえて居た。そして親子の本能の愛が、彼女を土の中にうづめなければならないやうに思った。
 母親は、小走に帰って来たが、静かにドアをあけ、はゞかるやうにお葉の方を見ながら、ベッドの前を通りぬけて、夜具のなかに顔をうづめた。
 お葉は、また目を開いた。時は一刻も動かないやうに見えた。そして同じ夜であると思った時、彼女の瞳はさぐるやうな不安に動いて、また母親を呼んだ。いま彼女の心には、母より以外にすがる神はなかった。母親は、また起き上った。そして、もはや何事も言はずに、彼女の毛布にかくれた足の方をぢっと見入った。
 かくて[#「 かくて」は底本では「かくて」]、お葉はこの一夜ひとよの中を、うゑた人のやうに疲れと絶望とに力なく瞳をとぢては、又いつか重いまぶたを上げて空を仰ぎ、死の恐怖に堪へられなかったのである。
 やがて、夜はあけた。世のあらゆるすべての静寂が、この花一つにふくまれて咲くやうな月見草のはなのやうに夜はあけはなれた。ほの白い夜あけの空気が、病室のなかに立ちこめる。