或る女(あるおんな)


 どこかから菊の香がかすかにかよって来たように思って葉子ようこは快い眠りから目をさました。自分のそばには、倉地くらちが頭からすっぽりとふとんをかぶって、いびきも立てずに熟睡していた。料理屋を兼ねた旅館のに似合わしい華手はで縮緬ちりめんの夜具の上にはもうだいぶ高くなったらしい秋の日の光が障子しょうじ越しにさしていた。葉子は往復一か月の余を船に乗り続けていたので、船脚ふなあしらめきのなごりが残っていて、からだがふらりふらりと揺れるような感じを失ってはいなかったが、広い畳のに大きなやわらかい夜具をのべて、五体を思うまま延ばして、一晩ゆっくりと眠り通したその心地ここちよさは格別だった。仰向けになって、寒からぬ程度に暖まった空気の中に両手を二の腕までむき出しにして、軟らかい髪の毛に快い触覚を感じながら、何を思うともなく天井の木目もくめを見やっているのも、珍しい事のように快かった。
 やや小半時こはんときもそうしたままでいると、帳場でぼんぼん時計が九時を打った。三階にいるのだけれどもその音はほがらかにかわいた空気を伝って葉子の部屋へやまで響いて来た。と、倉地がいきなり夜具をはねのけて床の上に上体を立てて目をこすった。
「九時だな今打ったのは」
 と陸で聞くとおかしいほど大きな塩がれ声でいった。どれほど熟睡していても、時間には鋭敏な船員らしい倉地の様子がなんの事はなく葉子をほほえました。
 倉地が立つと、葉子も床を出た。そしてそのへんを片づけたり、煙草たばこを吸ったりしている間に(葉子は船の中で煙草を吸う事を覚えてしまったのだった)倉地は手早く顔を洗って部屋へやに帰って来た。そして制服に着かえ始めた。葉子はいそいそとそれを手伝った。倉地特有な西洋ふうに甘ったるいような一種のにおいがそのからだにも服にもまつわっていた。それが不思議にいつでも葉子の心をときめかした。
「もうめしを食っとる暇はない。またしばらくせわしいでみじんだ。今夜はおそいかもしれんよ。おれたちには天長節てんちょうせつも何もあったもんじゃない」
 そういわれてみると葉子はきょうが天長節なのを思い出した。葉子の心はなおなお寛濶かんかつになった。
 倉地が部屋を出ると葉子は縁側に出て手欄てすりから下をのぞいて見た。両側に桜並み木のずっとならんだ紅葉坂もみじざかは急勾配こうばいをなして海岸のほうに傾いている、そこを倉地の紺羅紗こんらしゃの姿が勢いよく歩いて行くのが見えた。半分がた散り尽くした桜の葉は真紅しんくに紅葉して、軒並みに掲げられた日章旗が、風のない空気の中にあざやかにならんでいた。その間に英国の国旗が一本まじってながめられるのも開港場らしい風情ふぜいを添えていた。
 遠く海のほうを見ると税関の桟橋にもやわれた四そうほどの汽船の中に、葉子が乗って帰った絵島丸えじままるもまじっていた。まっさおに澄みわたった海に対してきょうの祭日を祝賀するためにマストから檣にかけわたされた小旌こばたがおもちゃのようにながめられた。
 葉子は長い航海の始終しじゅうを一場の夢のように思いやった。その長旅の間に、自分の一身に起こった大きな変化も自分の事のようではなかった。葉子は何がなしに希望に燃えた活々いきいきした心で手欄てすりを離れた。部屋には小ざっぱりと身じたくをした女中じょちゅうが来て寝床をあげていた。一けん半の大床おおとこに飾られた大花活はないけには、菊の花が一抱ひとかかえ分もいけられていて、空気が動くたびごとに仙人せんにんじみた香を漂わした。その香をかぐと、ともするとまだ外国にいるのではないかと思われるような旅心が一気にくだけて、自分はもう確かに日本の土の上にいるのだという事がしっかり思わされた。
「いいお日和ひよりね。今夜あたりは忙しんでしょう」
 と葉子は朝飯のぜんに向かいながら女中にいってみた。
「はい今夜は御宴会が二つばかりございましてね。でも浜のかたでも外務省の夜会にいらっしゃる方もございますから、たんと込み合いはいたしますまいけれども」
 そうこたえながら女中は、昨晩おそく着いて来た、ちょっと得体えたいの知れないこの美しい婦人の素性すじょうを探ろうとするように注意深い目をやった。葉子は葉子で「浜」という言葉などから、横浜という土地を形にして見るような気持ちがした。
 短くなってはいても、なんにもする事なしに一日を暮らすかと思えば、その秋の一日の長さが葉子にはひどく気になり出した。明後日東京に帰るまでの間に、買い物でも見て歩きたいのだけれども、土産物みやげものは木村が例の銀行切手をくずしてあり余るほど買って持たしてよこしたし、手もとには哀れなほどより金は残っていなかった。ちょっとでもじっとしていられない葉子は、日本で着ようとは思わなかったので、西洋向きに注文した華手はですぎるような綿入れに手を通しながら、とつ追いつ考えた。