渋江抽斎(しぶえちゅうさい)

 抽斎の述志の詩は、今わたくしが中村不折なかむらふせつさんに書いてもらって、居間に懸けている。わたくしはこの頃抽斎を敬慕する余りに、このふくを作らせたのである。
 抽斎は現に広く世間に知られている人物ではない。たまたま少数の人が知っているのは、それは『経籍訪古志』の著者の一人いちにんとして知っているのである。多方面であった抽斎には、本業の医学に関するものをはじめとして、哲学に関するもの、芸術に関するもの等、許多あまたの著述がある。しかし安政五年に抽斎が五十四歳で亡くなるまでに、脱稿しなかったものもある。また既に成った書も、当時は書籍を刊行するということが容易でなかったので、世におおやけにせられなかった。
 抽斎のあらわした書で、存命中に印行いんこうせられたのは、ただ『護痘要法ごとうようほう』一部のみである。これは種痘術のまだ広く行われなかった当時、医中の先覚者がこの恐るべき伝染病のために作った数種の書の一つで、抽斎は術を池田京水いけだけいすいに受けて記述したのである。これを除いては、ここに数え挙げるのも可笑おかしいほどの『つの海』という長唄ながうたの本があるに過ぎない。ただしこれは当時作者が自家の体面ていめんをいたわって、贔屓ひいきにしている富士田千蔵ふじたせんぞうの名で公にしたのだが、今ははばかるには及ぶまい。『四つの海』は今なお杵屋きねやの一派では用いている謡物うたいものの一つで、これも抽斎が多方面であったということを証するに足る作である。
 しからば世に多少知られている『経籍訪古志』はどうであるか。これは抽斎の考証学の方面を代表すべき著述で、森枳園もりきえんと分担して書いたものであるが、これを上梓じょうしすることは出来なかった。そのうち支那公使館にいた楊守敬ようしゅけいがその写本を手に入れ、それを姚子梁ようしりょうが公使徐承祖じょしょうそに見せたので、徐承祖が序文を書いて刊行させることになった。その時さいわいに森がまだ生存していて、校正したのである。
 世間に多少抽斎を知っている人のあるのは、この支那人の手で刊行せられた『経籍訪古志』があるからである。しかしわたくしはこれに依って抽斎を知ったのではない。
 わたくしはわかい時から多読の癖があって、随分多く書を買う。わたくしの俸銭の大部分は内地の書肆しょしと、ベルリン、パリイの書估しょことの手にってしまう。しかしわたくしはかつて珍本を求めたことがない。る時ドイツのバルテルスの『文学史』の序を読むと、バルテルスが多く書を読もうとして、廉価の本を渉猟しょうりょうし、『文学史』に引用した諸家の書も、大抵レクラム版の書に過ぎないといってあった。わたくしはこれを読んでひそかに殊域同嗜しゅいきどうしの人をたと思った。それゆえわたくしは漢籍においても宋槧本そうざんほんとか元槧本げんざんほんとかいうものを顧みない。『経籍訪古志』は余りわたくしの用に立たない。わたくしはその著者が渋江と森とであったことをも忘れていたのである。


 わたくしの抽斎を知ったのは奇縁である。わたくしは医者になって大学を出た。そして官吏になった。しかるにわかい時から文を作ることを好んでいたので、いつの間にやら文士の列に加えられることになった。その文章の題材を、種々の周囲の状況のために、過去に求めるようになってから、わたくしは徳川時代の事蹟をさぐった。そこに「武鑑ぶかん」を検する必要が生じた。
「武鑑」は、わたくしの見る所によれば、徳川史をきわむるにくべからざる史料である。然るに公開せられている図書館では、年をって発行せられた「武鑑」を集めていない。これは「武鑑」、こと寛文かんぶん頃より古い類書は、諸侯の事をするに誤謬ごびゅうが多くて、信じがたいので、いて顧みないのかも知れない。しかし「武鑑」の成立なりたちを考えて見れば、この誤謬の多いのは当然で、それはまた他書によってただすことが容易である。さて誤謬は誤謬として、記載の全体を観察すれば、徳川時代の某年某月の現在人物等を断面的に知るには、これにまさる史料はない。そこでわたくしは自ら「武鑑」を蒐集しゅうしゅうすることに着手した。
 この蒐集の間に、わたくしは「弘前医官渋江うじ蔵書記」という朱印のある本に度々たびたび出逢であって、中には買い入れたのもある。わたくしはこれによって弘前の官医で渋江という人が、多く「武鑑」を蔵していたということを、ず知った。
 そのうち「武鑑」というものは、いつから始まって、最も古いもので現存しているのはいつの本かという問題が生じた。それを決するには、どれだけの種類の書を「武鑑」のうちに数えるかという、「武鑑」のデフィニションをめて掛からなくてはならない。