津下四郎左衛門(つげしろうざえもん)

 津下四郎左衛門つげしらうざゑもんは私の父である。(私とはたれかと云ふことは下に見えてゐる。)しかし其名はたゞ聞く人の耳に空虚なる固有名詞として響くのみであらう。それも無理は無い。世に何の貢献もせずに死んだ、艸木さうもくと同じくちたと云はれても、私はさうでないと弁ずることが出来ない。
 かうは云ふものの、し私がここに一言を附け加へたら、人が、「ああ、さうか」とだけは云つてくれるだらう。その一言はかうである。「津下四郎左衛門は横井平四郎よこゐへいしらうの首を取つた男である。」
 丁度ちやうど世間の人が私の父を知らぬやうに、世間の人は皆横井平四郎を知つてゐる。熊本の小楠せうなん先生を知つてゐる。
 私の立場から見れば、横井氏が栄誉あり慶祥けいしやうある家である反対に、津下氏は恥辱あり殃咎あうきうある家であつて、私はそれを歎かずにはゐられない。
 この禍福とそれに伴ふ晦顕くわいけんとがどうして生じたか。私はそれをきはめて父のゑんそゝぎたいのである。
 徳川幕府の末造ばつざうに当つて、天下の言論は尊王と佐幕とに分かれた。いやしくも気節を重んずるものは皆尊王にはしつた。其時尊王には攘夷じやういが附帯し、佐幕には開国が附帯して唱道せられてゐた。どちらも二つづゝのものを一つ/″\に引き離しては考へられなかつたのである。
 私は引き離しては考へられなかつたと云ふ。これは群集心理の上から云ふのである。
 歴史の大勢から見れば、開国は避くべからざる事であつた。攘夷は不可能の事であつた。智慧ちゑのある者はそれを知つてゐた。知つてゐてそれを秘してゐた。衰運の幕府に最後の打撃をくらはせるには、これに責むるに不可能の攘夷を以てするにくはないからであつた。此秘密は群集心理の上には少しも滲徹しんてつしてゐなかつたのである。
 開国は避くべからざる事であつた。其の避くべからざるは、当時外夷ぐわいいとせられてゐたヨオロツパ諸国やアメリカは、我にまさつた文化を有してゐたからである。智慧のあるものはそれを知つてゐた。横井平四郎は最も早くそれを知つた一人である。私の父は身を終ふるまでそれをさとらなかつた一人である。
 弘化四年に横井の兄が病気になつた。横井は福間某ふくまぼうと云ふ蘭法医らんぱふいに治療を託した。当時元田永孚もとだながざねなどとまじはつて、塾を開いて程朱ていしゆの学を教へてゐた横井が、肉身の兄の病を治療してもらふ段になると、ヨオロツパの医術にたよつた。横井が三十九歳の時の事である。
 嘉永五年に池辺啓太いけべけいたが熊本で和蘭おらんだの砲術を教へた時、横井は門人をつて伝習させた。池辺は長崎の高島秋帆たかしましうはんの弟子で、高島が嫌疑をかうむつて江戸に召し寄せられた時、一しよに拘禁せられた男である。兵器とそれを使ふ技術ともヨオロツパが優つてゐたのを横井は知つてゐた。横井が四十四歳の時の事である。
 翌年横井が四十五歳になつた時、Perry が横浜に来た。横井は早くも開国の必要を感じ始めた。安政元年には四十六歳で、ロシアの使節にはうとして長崎へつた。其留守には吉田松陰が尋ねて来て、置手紙をして帰つた。智者と智者との気息きそくやうやく通ぜられて来た。翌年四十七歳の時、長崎につてゐた門人が、海軍の事を研究しに来た勝義邦かつよしくに識合しりあひになつて、勝と横井とが交通し始めた。これも智者のまじはりである。慶応二年五十八歳の時横井は左平太さへいた太平たへいの二人のてつを米国に遣つた。海軍の事を学ばせるためであつた。此洋行者は皆横井が兄の子で、後に兄を伊勢太郎いせたらうひ、弟を沼川三郎ぬまがはさぶらうと曰つた。横井は初め兄の家を継いだものなので、其家を左平太の伊勢太郎に譲つた。
 智者は尊王家の中にも、佐幕家の中にもあつた。しかし尊王家の智者は其智慧の光をくらますことを努めた。晦ますのが、多数を制するには有利であつたからである。開国の必要と云ふことが、群集心理の上に滲徹しんてつしなかつたのは、智慧の秘密がく保たれたのである。此かんの消息を一の drame の如くに、観照的に錬稠れんちうして見せたのは、梧陰存稿ごいんそんかうの中に、井上毅ゐのうへこはしの書き残した岩倉具視いはくらともみ玉松操たままつみさをとの物語である。これは教科書にさへ抜き出されてゐるのだから、今更ここに繰り返す必要はあるまい。そんなら其秘密はどうして保たれたか。岩倉村幽居いうきよの「裏のかくれ戸」は、どうして人の耳目に触れずにゐたか。それは多数がおろかだからである。