伊沢蘭軒(いさわらんけん)

 蘭軒を伝ふることが抽斎を伝ふるより難いには、猶一の軽視すべからざる理由がある。それは渋江氏には「泰平千代鑑」と題するクロオニツクがあつて、帝室、幕府、津軽氏、渋江氏の四欄を分つた年表を形づくつてゐるのに、伊沢氏には編年の記載が少いと云ふ一事である。強ひて此欠陥を補ふべき材料を求むれば、蘭軒には文化七年二月より文政九年三月に至る「勤向つとめむき覚書」があり、其嗣子榛軒しんけんには嘉永五年十月二十一日より十一月十九日に至る終焉の記があるのみである。独り榛軒の養嗣子棠軒たうけんは、嘉永五年十一月四日より明治四年四月十一日に至る稍詳密なる「棠軒公私略」を遺し、僅に中間明治元年三月中旬より二年六月上旬に至る落丁があるに過ぎぬが、其文には取つて蘭軒榛軒二代の事跡を補ふべきものが殆無い。
 わたくしは自己の態度を極めたいと云つた。しかしつく/″\これを思へば、自己の態度を極めることが不可能ではないかと疑ふ。わたくしは少くもこれだけの事を自認する。若しわたくしが年月にくるに事実を以てしようとしたならば、わたくしの稿本は空白の多きに堪へぬであらう。徳さんの作つた蘭軒略伝が既に編年の行状では無い。その蘭軒前後に亘つた「歴世略伝」も亦同じである。徳さんの記載に本づいたらしい和田さんの略伝も亦編年では無い。藝備偉人伝は、蘭軒を載せた下巻がわたくしの手許に無いが、同じ著者の「頼山陽」に引いた文を見れば、亦復またまた編年では無ささうである。おそのさんの談話の如きは、もとより年月日をつまびらかにすべきものに乏しい。わたくしは奈何いかにして編年の記述をなすべきかを知らない。


 わたくしはかう云ふ態度に出づるより外無いと思ふ。先づ根本材料は伊沢めぐむさんの蘭軒略伝乃至歴世略伝に拠るとする。これは已むことを得ない。和田さんと同じ源を酌まなくてはならない。しかし其材料の扱方に於て、素人歴史家たるわたくしは我儘勝手な道を行くことゝする。路に迷つても好い。若し進退きはまつたら、わたくしはそこに筆を棄てよう。所謂いはゆる行当ばつたりである。これを無態度の態度と謂ふ。
 無態度の態度は、かたはらより看れば其道が険悪でもあり危殆きたいでもあらう。しかし素人歴史家は楽天家である。意に任せて縦に行き横に走る間に、いつか豁然として道が開けて、予期せざる広大なるペルスペクチイウが得られようかと、わたくしは想像する。そこでわたくしは蘇子の語を借り来つて、自ら前途を祝福する。曰く水到りて渠成ると。
 系譜を按ずるに、伊沢氏に四家がある。其一は旗本伊沢である。わたくしはしばらく「総宗家」と名づける。其二は総宗家四世正久まさひさの庶子にして蘭軒の高祖父たる有信ありのぶの立てた家で、今麻布鳥居坂町の信平さんが当主になつてゐる。徳さんの謂ふ「宗家」である。其三は宗家四世信階のぶしなが一旦宗家を継いだ後に分立したもので、蘭軒信恬のぶさだは此信階の子である。徳さんの謂ふ「分家」で、今牛込市が谷富久町に住んでゐる徳さんが其当主である。其四は蘭軒の子柏軒信道のぶみちが分立した家で、徳さんの謂ふ「又分家」である。当主は赤坂氷川町の清水夏雲さん方に寓してゐる信治のぶはるさんである。
 総宗家の系図には、わたくしは手を触れようとはしない。其初世吉兵衛正重は遠く新羅三郎義光より出でてゐる。此に徳さんの補修を経た有形ありかたの儘に、単に歴代の名を数ふれば、義光より義清、清光、信義、信光、信政、信時、時綱、信家、信武、信成、信春、信満、信重、信守、信昌、信綱、信虎を経て晴信に至る。晴信は機山信玄である。晴信より信繁、信綱、信実、信俊、信雄、信忠を経て正重に至る。正重を旗本伊沢の初世とする。要するに旗本伊沢は武田氏のすゑで、いさはの名は倭名抄に見えてゐる甲斐国石禾いさわに本づいてゐるらしい。
 総宗家旗本伊沢より宗家伊沢が出でたのは、初世正重、二世正信、三世正岸せいがんを経て、四世正久に至つた後である。系図をけみするに、伊沢氏は「幕之紋三菅笠みつすげがさ、家之紋蔦、替紋拍子木」と氏の下に註してある。初世吉兵衛正重は天文十年に参河国で生れ、慶長十二年二月二日に六十七歳で歿した。鉄砲組足軽四十人を預つて、千五百五十三石をんだ。二世隼人正はいとのかみ正信は東福門院附弓気多ゆげた摂津守昌吉の次男で、正重の女婿ぢよせいである。正信は文禄四年に生れ、寛文十年十二月二日に七十六歳で歿した。わたくしの所蔵の正保二年の江戸屋敷附に「伊沢隼人殿、本御鷹匠町もとおんたかじやうまち」と記してある。肩には役が記して無い。三世の名は闕けてゐる。只元和七年に生れ、延宝二年六月十六日に五十四歳で歿したとしてある。然るに徳川実記に拠れば、隼人正正信の子は主水正政成もんどのかみまさしげである。延宝中の江戸鑑小姓組番頭中に「伊沢主水正、三千八百石、鼠穴ねずみあな、父主水正」がある。即ち此人であらう。