星座(せいざ)

 その日も、明けがたまでは雨になるらしく見えた空が、さわやかな秋の朝の光となっていた。
 咳の出ない時は仰向けに寝ているのがよかった。そうしたままで清逸せいいちは首だけを腰高窓の方に少しふり向けてみた。夜のひきあけに、いつものとおり咳がたてこんで出たので、眠られぬままにかわやに立った。その帰りに空模様を見ようとして、一枚った戸がそのままになっているので、三尺ほどの幅だけ障子が黄色く光っていた。それが部屋をよけい小暗く感じさせた。
 隣りの部屋は戸を開け放って戸外のように明るいのだろう。そうでなければ柿江も西山もあんな騒々しい声を立てるはずがない。早起きの西山は朝寝の柿江をとうとう起してしまったらしい。二人はあわてて学校に出る支度をしているらしいのに、口だけは悠々ゆうゆうとゆうべの議論の続きらしいことを饒舌しゃべっている。やがて、
「おい、そのばかをこっちに投げてくれ」
 という西山の声がことさら際立って聞こえてきた。清逸の心はかすかに微笑ほほえんだ。
 ゆうべ、柿江のはいているぼろばかまに眼をつけて、袴ほど今の世に無意味なものはない。袴をはいていると白痴はくちの馬に乗っているのと同じで、腰から下は自分のものではないような気がする。袴ではないばか馬だと西山がいったのを、清逸は思いだしたのだ。
 隣のドアがけたたましく開いたと思うと清逸のドアがノックされた。
「星野、今日はどうだ。まだ起きられんのか」
 そう廊下から不必要に大きな声を立てたのは西山だった。清逸は聞こえる聞こえないもかまわずに、障子を見守ったまま「うん」と答えただけだった。朝から熱があるらしい、気分はどうしても引き立たなかった。その上清逸にはよく考えてみねばならぬことが多かった。
 けれども西山たちの足音が玄関の方に遠ざかろうとすると、清逸は浅い物足らなさを覚えた。それは清逸には奇怪にさえ思われることだった。で、自分をいるようにその物足らない気分を打ち消すために、先ほどから明るい障子に羽根を休めているはえに強く視線を集めようとした。その瞬間にしかし清逸は西山を呼びとめなければならない用事を思いついた。それは西山を呼びとめなければならないほどの用事であったのだろうか。とにかく清逸は大きな声で西山を呼んでしまった。彼は自分ののどから老人のようにしわがれたうつろな声の放たれるのを苦々にがにがしく聞いた。
「さあ園の奴まだいたかな」
 そう西山は大きな声で独語しながら、けたたましい音をたてて階子段を昇るけはいがしたが、またころがり落ちるように二階からりてきた。
「星野、園はいたからそういっておいたぞ」
 その声は玄関の方から叫ばれた。傍若無人ぼうじゃくぶじんに何か柿江と笑い合う声がしたと思うと、野心家西山と空想家柿江とはもつれあってもう往来に出ているらしかった。
 清逸の心はこのささやかな攪拌かくはんの後に元どおり沈んでいった。一度聞耳を立てるために天井てんじょうに向けた顔をまた障子の方に向けなおした。
 十月の始めだ。けれども札幌では十分朝寒といっていい時節になった。清逸は綿の重い掛蒲団を頸の所にたくし上げて、軽いせきを二つ三つした。冷えきった空気が障子の所で少し暖まるのだろう、かの一匹の蝿はそこで静かに動いていた。黄色く光る障子を背景にして、黒子ほくろのように黒く点ぜられたその蝿は、六本の脚の微細な動きかたまでも清逸の眼に射しこんだ。一番前の両脚と、一番後ろの両脚とをかたみがわりに拝むようにすり合せて、それで頭をでたり、羽根をつくろったりする動作を根気よく続けては、何んの必要があってか、素早くその位置を二三寸ずつ上の方に移した。乾いたかすかな音が、そのたびごとに清逸の耳をかすめて、蝿の元いた位置に真白く光る像が残った。それが不思議にも清逸の注意をきつけたのだ。戸外おもてでは生活の営みがいろいろな物音を立てているのに、清逸の部屋の中は秋らしくもの静かだった。清逸は自分の心の澄むのを部屋の空気に感ずるように思った。
 やはりおぬいさんは園に頼むが一番いい。柿江はだめだ。西山でも悪くはないが、あのがさつさはおぬいさんにはふさわしくない。そればかりでなく西山は剽軽ひょうきんなようで油断のならないところがある。あの男はこうと思いこむと事情も顧みないで実行に移るたちだ。人からは放漫と思われながら、いざとなると大掴みながらに急所を押えることを知っている。おぬいさんにどんな心を動かしていくかもしれない。……
 蝿が素早く居所をかえた。
 俺はおぬいさんを要するわけではない。おぬいさんはたびたび俺に眼を与えた。おぬいさんは異性に眼を与えることなどは知らない。それだから平気でたびたび俺に眼を与えたのだ。おぬいさんの眼は、俺を見る時、少し上気した皮膚の中から大きくつやつやしく輝いて、あるはにかみを感じながらも俺から離れようとはしない。心の底からの信頼を信じてくださいとその眼は言っている。眼はおぬいさんを裏切っている。おぬいさんは何にも知らないのだ。