巴里より(パリイより)


 予等は日夜欧羅巴ヨウロツパあこがれて居る。こと巴里パリイが忘れられない。滞留期が短くて、すべて表面ばかりを一瞥いつべつして来たに過ぎない予等ですらうであるから、久しく欧洲の内景ないけいしたしんだ人人は幾倍かこの感が深いことであらう。
 近日、友人徳永柳洲りうしう君はを、予等夫妻は詩歌しいかもつて滞欧中の所感を写した「欧羅巴ヨウロツパ」一冊を合作がつさくしようと計画して居る。其れは同期に欧洲に遊んだ画家と詩人の記念であるのみならず、たがひに「海のあなた」の恋しさを紛らさうとする手ずさびである。
 しかし、この巴里パリイより」一冊はその様な意味から世にだすのではない。
 予は明治四十四しじうよ年十一月八日やうかに横浜から郵船会社の熱田丸あつたまるに乗つて海路を取り、予の妻は翌年五月五日いつかに東京を立つてシベリヤ鉄道にり、共に前後して欧洲にむかつた。
 予等は旅中りよちうの見聞記を毎月幾回か東京朝日新聞に寄せねばならぬ義務があつた。なほ晶子は雑誌婦人画報などに寄稿する前約ぜんやくがあつた。そして新聞雑誌の性質上、予等の通信はあらかじめ「通俗的に」と云ふ制限を受けて居た。
 予の欧洲に赴いた目的は、日本の空気から遊離して、気楽に、真面目まじめに、しばらくでも文明人の生活にしたしむことの外に何もなかつた。実に筆を執つて皮相の観察を書くことなどはすくなからぬ苦痛なのである。自然予等は通信の義務をおこたることが多かつた。
 今ここに、書肆しよしから望まれるにそれ等の見聞記を集めて読み返して見ると、すべて卒爾そつじに書いた杜撰づざん無用の文字のみであるのに赤面する。初めから一冊の書とする予期があつたのなら、少しは読者の興味を刺激するに足る経験や観察を書きもらさずに置いたものを。
 いづれの地の記事も蕪雑であるが、伊太利イタリイの紀行中、羅馬ロオマついては数回にわたる記事を一括して新聞社へ送つたはずであつたのに、その郵便が日本へ着かずに仕舞しまつた。ナポリ、ポンペイ等の記事も同様である。それ等の郵便を予自身に郵便局へおもむいてさし立てなかつたのが過失であつた。人気にんきるいナポリの宿の下部ギヤルソンに托しために故意に紛失ふんじつされた[#「された」は底本では「さされた」]のであつた。さりとて今更記憶を辿たどつて書き足す気にもならない。この書の為に益々不備をうらむばかりである。
 予と船を同じうして欧洲に遊び、予より一年遅れて帰つた徳永柳洲りうしう君が、在欧中の画稿から諸種の面白い材題を撰んでこの書の挿画さふぐわと装幀とに割愛せられたのはかたじけない。柳洲りうしう君の才筆を添へ得て初めてこの書を世にだす意義を生じたやうに思ふ。
 予等は主として巴里パリイとゞまつて居た。従つてこの書にも巴里パリイの記事が多い。「巴里パリイより」と題した所以ゆえんである。
   大正三年五月
よさの・ひろし
[#改丁]




 ※田丸あつたまる[#「執/れんが」、U+24360、1-5]から上陸した十余人の旅客りよかくは三井物産支店長の厚意で五台の馬車に分乗し、小崎をざき用度課長の案内で見物して廻つた。上海へ来て初めてガタ馬車以外の馬車に乗つた人もすくなくない。勿論僕もその一人だ。南京路ナンキンロ四馬路スマロなどの繁華雑沓ざつたふは銀座日本橋の大通おほどほりを眺めて居た心持こゝろもち大分だいぶんに違ふ。コンクリイトで堅めた大通おほどほりやはらかに走る馬車の乗心地が第一にい。護謨輪ごむわは少しも音を立てず、聴く物はたゞ馬の蹄音つまおとばかりである。自動車、馬車、力車りきしや、一輪車、電車、あらゆる種類の車と、あらゆる人種を交へた通行人とが絡繹らくえきとしながらの衝突も生じないのを見ると、神田の須田町や駿河台下でうろうろして電車にきもひやすのはまだ余程よほど呑気のんきだと思ふ。
 十字路ごとに巡査が立つて電車の旗振はたふりの代りと通行人の警戒とに当つて居る。旗を振るのでなく、赤い鉢巻をした、背の高い、目の光つた印度インド人の巡査が直立して無言のまゝ静かに片手をあげばかりだ。日本の巡査も交番を撤廃してう云ふ具合に使用したいものである。支那商店の軒頭けんとうからは色色いろいろの革命街上がいじやうへ長い竿をよこたへて掲げて居る。間に合せに出した白旗はくきもあるが、二つどもゑに五しきで九曜の星をとり巻かせたり、「我漢復振わがかんまたふるふ」などと大書たいしよしたりしたものもある。申報しんぱうの号外を子供が売つて歩く。しかし自然に中立地帯をなして居る土地だけに格別革命軍の影響はすくない。東京での騒ぎの方が余程よほど大きい様である。