金属人間(きんぞくにんげん)

 博士論文が通過するまでの約一年間に、かれがまとめあげた研究論文は五つ六つあった。その中に、特にここでごひろうしておきたいのは「細胞内における分子配列と、生命誕生の可能性、ならびにその新確率論しんかくりつろんによる算定さんていについて」というのであった。
 この論文といい、また博士論文に提出したあの論文といい、かれが研究の方向を、細胞の分子に置いていることが、これによってうかがわれる。こういう研究の領域りょういきは、わが国はもちろん、世界においても今までに手がつけられたことがなく、じつに研学けんがくの青年針目左馬太によってはじめて、メスを入れられたところのものであった。
 しかもかれは、すこぶる大胆にも「生命の誕生」という問題を取り上げているのだった。はたしてかれの論文が正しいかどうかは別の問題として、かれはつぎのようなことを結論している。
(――細胞内における分子が相互にケンシテイションをひき起こし、そのけっか仮歪かわいのポテンシャルを得たとすると、これは生命誕生の可能性を持ったことになる)云々。
 これが重大なる結論なのである。生命が誕生する可能性をもつ条件が、要約せられているのである。
 しかし、ケンシテイションとはどんな現象なのか、仮歪かわいのポテンシャルとはどんな性質のものか、それについてはこの論文を読んだ者はひじょうな難解なんかいにおちいる。だが針目青年には、これがよくわかっていて、論文中いたるところにこれを駆使くししている。思うに、この二つの専門語を知るためには、これよりもまえに書いた、彼の他の論文を読破どくはしなければならないのであろう。
 それはともかく、かれの研究は生命誕生の可能性にまで達していると思われる。これはこれまでの生物学者も医学者も、まったくふれることのできなかった難問題である。それを二十歳を越えたばかりの白面はくめんの青年学徒が、みごとに手玉にとっているのであるから、なんといってよいか、じつに原子力行使げんしりょくこうしにつぐ劃期的な文明開拓だといわなければならない。もっとも、世の多くの頑迷がんめいな学者たちは、にわかにこの青年学徒のしめすところの結論を信用しないであろうけれど……。そして読者諸君はこれからくりひろげられる物語の事実により、はたしてかれの研究が本ものか、それとも欠陥けっかんがあるかを判定されればよいのである。
 さてここで、さきにかかげた博士の日記ふうの随筆にもどるが、その内容は、さほど奇抜きばつすぎるというものではない。あそこに述べられたような感じは、われわれとても、ふだんふと心の中にいだくことがある。
 じつは、右の内容について、大いに気にしなければならぬことがあるのであるが、ここにはふれないでおく、それはいずれ先へ行ってから、いやでもむきになって掘りかえさなければならない時がくるのであるから。
 ただ、ここにはその文章の最後のところに書いてある一文について、読者の注意をうながしておきたいのだ。
 すなわち、こうである。
(一月十日、金属Qを創造そうぞうする見込みこみのつきたる日しるす)
 とある。
 おかしいとは思われないか。これまでずっと細胞分子の問題や、それに関連しての生命誕生のことなどばかりを取りあげていた針目博士が、こんどは急にがらりと目先をかえて、金属の製造研究に没頭していることである。
 金属製造――と書いては、いけないかもしれない。博士は“金属Qを創造”としたためている。製造と創造とは、なるほどすこしく意味がちがう。しかし創造ということには製造することがふくまれているのだ。はじめて製造することが創造なのである。してみれば、ぞくっぽく金属製造といってもさしつかえないであろう。
 いや、金属というものは、精錬せいれんされ、あるいは別のものに化成され、または合金ごうきんにされることはあるが、金属そのものを製造することはない――というひともあろう。つまり金属である銅とか鉄とかは、はじめからそういう形でこの地球に存在しているのであって、銅とか鉄などが製造または創造されるというのはおかしい。そういう抗議が出そうな気配けはいがする。
 しかし、たしかに針目博士は“金属を創造する”と書いてあるのだ。ウラニュウムをぶちこわしてカルシュウムを製造または創造するとはいわないであろうか。
 いや、それは潔癖けっぺきにいうと、製造ではないし、もちろん創造ではない。アダムのからだから肋骨ろっこつを一本取り去ったとき、その直後のアダムのことを、前のアダムから製造したといわないのと同様である。
 そうなると、針目博士が使用した“金属の創造”というのは、いったいどんな意味なのか、深い謎のベールに包まれているように感ずる。――まあ、そのことは、今は大目に見のがすこととして、“金属Q”というものはいったい何だと、ちょっと考えてみなければなるまい。