徳永直の「はたらく人々」(とくながすなおの「はたらくひとびと」)

 生産的な場面での女の働きは益々範囲がひろがって来ているし、そこへの需要も急速に高まっているけれども、一応独立した一個の働き手として見られている勤労婦人の毎日の生活の細部についてみれば、それぞれ職場での専門技術上の制約があり、男対女の慣習からのむずかしさがあり、更に家庭内のいきさつで女はまだまだ実に重たい二重の息づきで暮している。
「はたらく人々」で徳永直氏は、印刷工場の解版女工であるアサを中心に、この複雑きわまる今日の働く婦人の問題にふれているのである。
 女主人公アサとの対照として作者は用意ふかく愛子、シゲという二つのタイプを描き出し、結婚に対する態度、工場の高度の技術化のためにおこる解版女工の失業についての身のふりかたにコントラストを示している。どうせ共稼ぎの結婚なんて馬鹿くさくて、という愛子は妙な男づきあいをしつつ、失業とともに喫茶ガールになってゆく。シゲは全く古い職人肌の亭主をもって、脚気の乳をのまして赤ン坊に死なれたり、これまでの工場が駄目になると、只身を落した気易さだけに満足して時代おくれの小工場へ落着く。アサは自分の身の上にかかって来る同じその事情のなかで、愛子の生きかたにもシゲの受動的な日暮しの態度にもあき足りず、困難をしのいで女に例の少い女文選としての技術を身につけ、同時に、女が働くのは嫁に行くまでだという勤労者の常識にさえ滲みこんでいる考えかたを自分で破って行こうとする。小説はそういう心持にアサが辿りつくまでの経緯、腕のいい職工であるが勝気で古い母に圧せられ勝な良人の山岸との心持の交錯、大変物わかりのよい職長梶井のうごきなどを語って展開されているのである。
 深い興味をもって読んだが、この長篇の前半と後半との間で、何かアサの心持の成長を必然として納得させる一貫したものが欠けている、或は書き落されているような印象を与えられたのは私だけであるまいと思う。
 後半、工場で自動鋳造機を入れるようになってからのアサの心のありようは、非常にはっきりとしているばかりでなく勤労婦人として、自分の技術に対してあれだけの自覚と熱意をもつ女は、そうざらにあるまいと思うように描かれている。「やはり自分は働こう、働けるだけ働いて自分の技術をたかめよう。経済的にもそうしなければならなかったし、自分が働くことでこの赤ン坊が不幸とは思えまい。そしてそれが、自分を女という古い掟で縛りつけ圧服してしまおうとする凡ゆる古い力に対抗し得るたった一つの道だと思った」女としての感情がここへ来るにはアサが単にお下髪さげの使い屋から苦労してたたき込んだ腕をもっているというだけが理由ではない生活感情、社会的な感情が土台となって初めて可能なものではないだろうか。作者は姑との軋轢に苦しむアサ夫婦の心持を、旧套の力がのしかかる大さの感覚でうけて観ており、後半では作者自身の理想に立ってアサの成長を描いているようにも思える。アサが、誰にも負けるもんか、負けるものかと思っている、そういう前半の自然発生な女の勝気から、後半の、良人の古い半面にもめげず、自分の技術を高めようとすればあらゆる種類の仕事に従う現代の働く女が誰しも感じる働く女としての孤独感に到る心の過程、そのような勤労婦人としての成長をもたらしたモメントは、アサの生活のどこにあったのだろうか。前半から後半へうつる第四章の冒頭で作者は周到に、「一つのことについて明瞭になるまで十分に考えられない」状態としてアサの生活をも語っている。しかし、読者が作家に求めるのは、アサ自身は或は無意識であるかもしれないそういう人間成長の急所についての心にふれて来る物語ではないだろうか。利害相剋の緩和者として出現している梶井のありかたも、いいが、気になる何かが在るところも面白いと思う。アサが文選の仕事を見習いはじめてからの情景、山岸がアサに「お前帰れ――家へ帰れよ」と云う夫婦の心持の縺れの描写のあたりは(五章の三)職場での男対女の感情のしきたりを描いた五章の一のあたりとともに、生彩を放っている。
 働く女が働くものとして自身の技術を愛する熱意はそのものとして美しく、描いて美しいが、今日の現実にあっては、『中央公論』の九月号に藤田進一郎氏が働く婦人の問題について語っているとおりの実状だから、作者としては十分女の主観の外まで歩み出して、梶井という人物の偶然の物わかりよさで納まってゆく範囲をえたものとして力づよく率直に読者の実感に訴えてよいのだと思われた。
〔一九三九年十二月〕