反動ジャーナリズムのチェーン・ストア(はんどうジャーナリズムのチェーン・ストア)

 ブルジュア・ジャーナリズムで行われるいろいろの懸賞募集の選は、いつも必ずブルジュア・ジャーナリズムの利害の見地でやられる。
 当選した文章が、だから、いつもその時応募した数百のものの中で一番正鵠を得て書かれているとか、科学的に正しい社会的認識をもって書かれているとかと云うことは保証の限りでない。
 例えば、この「中條百合子様へ」という封建的呼びかけをもった女名前の公開状がそれだ。
 この文章の中には、実に基本的な事実の誤謬や、無知さが、偶然か故意か、現われている。或る部分はまるっきり間違った反動的風聞を基礎にして書かれた頼りないものだ。
 ところで、これらの欠点が、選をした編輯局では分っていないのだろうか? いや、いや。ハッキリ知っている。
 五百余篇も集まった応募文から、何故そんな判りきった誤謬をもったこの一文が当選したのだろう? 答えは一つだ。
 この「中條百合子様へ」は、ブルジュア・ジャーナリズムのやりかた、大衆の社会主義社会建設への欲望への毒針を、小さいながら形式において備えている。だから、これは一寸面白いというわけで当選したのだ。本当のプロレタリアートなら恥しいと思う階級的売りわたしで、当選しているのだ。
 森鶴子という筆者は書いている。「今年の六月、モスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)で開かれた全国経済委員会議でスターリンが五ヵ年計画の失敗を告白している。差別賃銀制が行われるようになった。集団農場から箇別農場へ、強制労働から自由契約労働へ転向した。これは重大な敗北だ。ソヴェト・ロシアのことなら何でもいいと云うかもしれないが、五ヵ年計画について気焔をはいていたお前はこの失敗について何というか?」ソヴェト同盟の五ヵ年計画を中條という箇人の特許品のように云う如何にも滑稽な小ブルジュア的間違いはとにかく、箇々の事実を調べよう。
 森君は、どこの全国経済委員会でスターリンの演説をきかれたんだろう。ソヴェト同盟で行われた全国経済委員会でスターリンは、局部的にもそれらしい演説はやっていない。
 一九三一年六月二十三日モスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)の全国経済委員会で、スターリンはこう云った。「会議の材料から見ると、わが国の産業は計画達成の点からして、ひどくマチマチだ(中略)この理由は産業発達の新しい条件が発生し、根本的に新しい情勢が新しい指導方針を要求していることにある。つまり、失業のあった時代のソヴェトの情勢と今日は全く違って来ている。」そして、六箇条のソヴェト産業発達の条件をあげている。中に、失業があった時代労働力はひとりでに流れて来た。ところが農村と都会に失業がなくなった結果、ソヴェトはもう非社会主義的な労働力の自然流動を待つことは出来ない。故に集団農場との組織的契約によって労働力を満して行かなければならない、と云っている。資本主義的な労働力ダンピングである自由契約なんてことはどこを見ても無い。
 賃銀の新条件についての事実はこうだ。元の賃銀率(タリフ)システムには、熟練工と不熟練工、過労な労働と軽い労働との間の差が具体的に区別出来ない欠点があった。所謂いわゆる平均主義者に向って、スターリンは、生産の主人であるソヴェトのプロレタリアートが、賃銀の新条件、住宅、配給の改良によって、益々階級として強化さるべきことを云っている。
 集団農場から、箇別農場への転落というのは、ブルジュア新聞にさえ書いてない、あり得べからざる事実の間違いだ。数字で示そう。
集団農場に組織された農戸数
 一九二八年         四〇〇、〇〇〇
 一九二九年       一、〇〇〇、〇〇〇
 一九三〇年       六、〇〇〇、〇〇〇
 一九三一年       九、〇〇〇、〇〇〇

播種面
 一九二八年       二百万ヘクター
 一九二九年       六百五十万ヘクター
 一九三〇年       四千三百万ヘクター
 一九三一年       六千五百万ヘクター
 集団農場に組織された農民は一九三〇年に、五〇パーセントの増収を見た。そして、この七月の統計によるとソヴェト同盟全農戸の六〇パーセントが集団農場に組織された。
 森君は、マルクシズムとか、階級闘争とかいろいろの言葉を文中につかっているが、実際はそのABCさえも理解していない。「仮にこの武器によって(プロレタリア文学のこと)次第に階級闘争を激化させ」云々というところから一枚ばかりの間にある矛盾だらけの文章で、それは明かに示されている。筆者は、わる丁寧な言葉で、御教示を仰ぎたいとか何とか文学的修辞を並べているが、無用なことだ。
 第一、プロレタリア文学の世界的陣営で、芸術創作上の弁証法的方法の問題が、どの位熱心に、誠意をもって討究されているか。作品中に具体化されているか。その見易い事実さえも筆者は無視しているではないか。残念ながらこの公開状は階級闘争における、芸術運動における、全く常識的な土台さえ無いところから書かれている。