私の書に就ての追憶(わたしのしょについてのついおく)

 東京の西郊に私の実家が在つた。母屋の東側の庭にある大銀杏の根方を飛石づたひに廻つて行くと私の居室である。四畳半の茶室風の間が二つ連なつて、一つには私の養育母がゐた。彼女はもう五十を越してゐたが、宮仕へをした女だけあつて挙措が折目正しく、また相当なインテリでもあつて、日本古典の書物の外に、漢詩とか、支那の歴史ものを読んでゐた。字も漢字風に固い字を書いた。当時五歳の私に彼女は源氏物語の桐壺の巻を「何れの御時にか、女御更衣数多侍ひ給ひける中に……」と読ませて、私は何の意味も判らないながら、養育母兼家庭教師である彼女の字に真似て実語経の一節や、万葉集の歌を万葉仮名で書き始めた。私は字を書くことに段※(二の字点、1-2-22)興味を持つて行つた。
 小学校へ上ると、私は習字の先生の字を注目した。その先生の字は、上級生の間では、奇麗で上手だといふ評判だつた。だが、私の目には何の感動も与へず、つまらないものに見えたので、私は却つて不思議に先生の字を気にした。何と批評していいのか、その当時の私は幼くて言ふことを知らなかつたが、今に回顧してみて奇麗でも何だか薄つぺらな字といふ感じであつて、それまで養育母に就て二三年間も固い字ばかり書いてゐた私は、全く感じの違つた字に逢つて戸惑ひしたらしかつた。
 私はその先生から「漢字はとても立派ですが、仮名は固すぎます……字をそんなに大きく紙一ぱいに書くものではありません」と何度も注意された。私はいつも大きな字を書いてゐた。
 兄弟がママかつたので、正月の書初めは母屋の胴の間の鴨居から、品評会のやうに貼り下げられた。私のものは矢張り大きな漢字であつた。習字の先生が年賀に越されて、私の書初めを眺めながら「かう漢字ばかりでは私のなほしてあげるところはありませんね」と言つて、何だか私を手に負えない者のやうに見て困つた顔をして笑はれた。私は幾分得意のやうでもあつたがそれよりも、何処か人と合はない傾向を自分自身に気付いて、それを淋しいものと思つた。
 そのやうな字の傾向は、確かに年少の私が字を習ひ始めに養育母がその緒を与へたからだと言へば言へるが、私自身の生れつきにも原因があつた。今に至るも私は不器用で、物ごとをすら/\運ぶことが出来ない性質である。世の多くの人※(二の字点、1-2-22)は経験を積むことによつて着※(二の字点、1-2-22)熟練上達し、同じことをなすには無意識でも反射的に手際よくすることが出来る。ところが、私は、幾度同じことを繰返しても、その都度、全く新奇なことにぶつかつたやうに思へて、全意識を傾倒しなければならない。だから私には、物ごとを経験熟練により反射的に手早く取片づけることは出来ないのである。字もまた、幾度習つても前と決して同じやうな字がすら/\書けない。私は仮名まで漢字を使つてしかつめらしい字を書いた。
 それとまた、幼女時代、はにかみ屋で、控へ目勝ちだつた私は、異常に無口であつたから、言葉によつて表現出来ない鬱屈した感情の吐け口を無意識にも、字に求めたらしいことが今の私の記憶に照し合せて判断される。されば、その鬱情を乗り移らせるのに勢ひ大きな、貫禄のありさうな漢字を好んで書いたものであつたらう。今から思へば、自分の事ながら、いぢらしい気がする。
 さやうにして、気分も違ひ、意気込みも違ふに従つてその時時の字を書いた。書かれた字は私の精魂を反映してゐて、慰めになつた。私は終日、年に似合はぬ意味も判らぬ難字――その方が感情を載せるのに収容力の余地があるやうな気がして――を書き続けるのであつた。紙をはづれて、手も机も畳までも墨で汚しながら。養育母は却つてそれを喜びながら、後で雑巾がけをして呉れた。
 私より三つ上の兄は、小学校の日曜休み毎に東京市内の渋谷に住む鳴鶴ママの大家近藤雪竹先生の許に出向いて書を習つてゐた。家へ帰つて来て練習する母屋の方へ出向いて、それを見付けた私は、そこでも兄に負けないで一緒に習字することを思ひ立つた。私達は競争で大文字の千字文から、しまひには手に余るやうな太い筆を持つて旗や幟の字まで書いたりした。
 女学生時代となつて、当時、小野鵞堂先生の人気素晴らしかつた。誰も彼も、その流麗な字を真似た。だが私は、それに向ふ気が起らなかつた。幼時から漢の字風の固い字を書きつけてゐた上に、ママ屈な気性の私は、こゝでも、自分には縁のない字として諦めてしまつた。その代り、女学世界といふ雑誌があつて、その口絵の裏などに屡※(二の字点、1-2-22)、多田親愛先生の書が載つてゐた。私はその書が好きで、切り抜いて置いて熱心に習つたものであつた。学校でも校長先生の跡見花蹊女史の字が漢の字であつてその影響を多分に受けた。
 女学校を卒業すると、私は京橋の岡本家へ来たが、主人の父は当時、東京で名前の知られた書家であつた。舅は私に自分の流儀を直接教へはしなかつた。非常に寛容の人で私の字筋は性格的だから自分で工夫して行かせ度いと云はれ、所蔵する書の本を沢山私に貸与して優れた字の含む風韻とか格といふものを感得させて呉れられた。(舅の友人に前田黙鳳といふ先生があつて、その古朴正厳な覇気横溢の書体にも私は深く感銘を得たことを憶えてゐる。)私は斯様に字に就いて可なり我儘であると同時に悩んだ。従つて時代/\により筆法が変はり、今に至るもまだ固定した私の字といふものはない。自分のサインさへ決まつてはゐないほどである。