疲労(ひろう)

「これは奇妙不思議だ、中西へ手紙をやろうとすると、おちょうさんがやって来る、争えんものだ、」と大森が十七八の小娘に手紙を渡す[#底本では句読点なし。20-8]
「アラまたあんな事をおッしゃる、中西さんなんかなんでもないワ、ほんとにあたしくやしいわ、みんなしてからかうんだもの」と手紙をふんだくるように取って「いいわ、そんな事をおッしゃるならこのお手紙をどっかへうっちゃってしまうから。」
「イヤあやまった、それは大切の手紙だ、うっちゃられてたまるものか、すぐ源公に持たしてやっておくれ。おちょうさんはいい子だ。」
「蝶ちゃんはいい子だ、ついでに人車くるまを。」と客が居ずまいを直してあいづちを打った。
「田浦さん、はげが自慢にゃなりませんよ」と言い捨てて出て行った。
 まもなく車が来て田浦は帰り、続いて大森も美麗な宿車やどぐるまで威勢よく出て行った。
 午後四時半ごろになって大森は外から帰って来たがへやにはいるや、その五尺六寸という長身を座敷のまん中にごろりと横たえて、大の字になってしばらく天井を見つめていた。四角な引きしまった顔には堪えがたい疲労の色が見える。洋服を脱ぐのもめんどうくさいらしい。
 まもなくおきよがはいって来て「江上えがみさんから電話でございます。」
 大森ははね起きた。ふらふらと目がくらみそうにしたのを、ウンとふんばって突っ立った時、彼の顔の色は土色をしていた。
 けれども電話口では威勢のよい声で話をして、「それではすぐ来てください」と答えた。
 へやにかえるとまたもごろりと横になって目を閉じていたが、ふと右の手をあげて指で数を読んで何か考えているようであった。やがてその手がばたり畳に落ちたと思うと、大いびきをかいて、その顔はさながら死人のようであった。
(終)