姑と嫁について(しゅうとめとよめについて)

 ヒステリイは今日までの所、多数の婦人の或時期(月経時、妊娠時、分娩後、子宮病時)や或境遇(久しい間の独身、異常な災厄)に伴う共通の発作症である。それに強烈なのと微弱なのとあり、また遺伝から来るのと特発するのとあるが、それが或事を誘因としてにわかに迫って来る時には、人は意識の統一を失って自分で自分が制し切れなくなるものである。私は自身に精神病者の血を引いているし、父が卒中でたおれたほどの大酒家であったので、自然に病的な素質を持っていて、或時期に往往はげしいヒステリイに襲われることがあるから、その若い妻が逆上して刃物を投げ附けたという心理を十分に想像することが出来るのである。投げた物がたまたま刃物であったために大それた刃傷沙汰になったが、ヒステリイの不可抗力に襲われたその時の気分は、何でもいいから手当り次第に投げ散して鬱積うっせきした心の蒸汽を狂的にもらさずにはいられないのである。そしてその不可抗力に襲われて無茶苦茶なことをしてしまった後のはなはだしい悔恨と不快さはこれを経験しない人に到底理解の出来そうにないことである。意識の自制を失った際とはいえ、姑に刃物を投げ附けて負傷させたような結果を作ったのであるから、その瞬時の後に自己に返った若い妻が教育ある婦人だけにその悔恨が心をんだことも異常であったに違いない。法廷において被告が誠心誠意懺悔ざんげの涙にむせんだというのは同情されることである。
 その動機に情状の酌量すべき所があっても、その事実が法文に触れているのであるから犯罪人として処刑されるのはやむをえない。殊に在来の道徳や習慣をその不用な部分までも背景にしている日本の法律では、嫁が姑を刺したという表面の大それた事実を重く見るので情状酌量の余地がない。それでこの犯罪は八年の懲役に処せられ、執行猶予の沙汰もなかったが、宣告の際に物優しい判事は獄則を恪守かくしゅして刑期のなかばを過したなら仮出獄の恩典に浴することも出来るということを告げたということである。私はこの刑罰の裁量が妥当であるかどうかを知らない。とにかくこうして某工学士一家のいたましい悲劇は一段落が附こうとしているのである。しかし私はこの事件を切掛きっかけにして更にいろいろの感想が胸に浮ぶ。

 同じ悲劇の種は、姑と嫁のある日本の家庭の大多数に伏在している。姑が嫁を愛するというような事は昔の清少納言せいしょうなごんも珍しい物の中に引いている通りむしろ例外であって、「あなたは善い姑をお持ちになってお仕合せです」と嫁の友人から祝を述べるほどのことである。もとより姑根性には種種いろいろあって某工学士の母の実際はどうであるか知らないが、最も極端な例に引かれる残忍な姑さえ決して世間に珍しくはないのであるから、それ以外の、あるいは悪性、あるいは不良な程度の姑は無数に散在している。官吏や被傭人となって他郷に生活している若夫婦の中には父母と別居している者が多く、それらは直接に姑の干渉を受けないであろうが、しかし某工学士夫婦のように横浜と神戸とに別居していてすら前述のような惨事を引起したのであるから、如何に遠く離れて住んでいても聡明な愛情を欠いた姑に対する嫁の気兼きがね苦労は多少にかかわらず附帯しているのである。まして姑と一所に定住している大多数の嫁がそれらの姑の下にあるいは干渉され、あるいはいじめられ、あるいは意地悪く一分いちぶだめしに精神的に虐殺されつつあるのは言うまでもない。
 私は自分の息子むすこのように嫁を愛し、あるいは蔭に廻って嫁を弁護するほどの美質を持った理想的の姑が甚だまれに世にあることを認めるが、それは勿論尊敬すべき姑である。しかしいわゆる姑根性を脱しない大多数の姑たちについて、私は一概に憎悪のみを以て対しようとは思わない。これは私が姑という者を持たない境遇にいて、姑に対する気兼苦労の実感を経験しないからでもあろうが、私は憎悪の外に気の毒なと思う感が附随している。なぜなら彼らの大多数の姑たちは一方には教えられざる婦人であり、一方には老後の索寞さくばく、月経閉鎖期前後の悲哀、その他種種の事情から精神の平衡を欠き、もしくはヒステリイ症にかかっている婦人だからである。
 数年前に私は老人教育の必要であることを述べた。日本の教育という意味が青年教育ばかりに偏しているので、青年の思想はどしどし前へ進んで行くのに、老人は一度若い時に教育されたきりであるからその思想は過去のままに乾干ひからびている。社会の要部が老人と青年とで成立つものである以上、老人と青年との意志が疏通そつうしなければ社会は順調に進歩しない訳である。年齢の差などがあって少しは疏通しにくい部分があるのは免れないにしても、青年と共に現代の思想に浸ることをおこたりさえしなければ、すべての老人が青年の思想を大部分理解することが出来て、同じ基調の上に呼応し協力して人生の音楽が合奏されるに到るであろう。しかるに日本の老人の多数は私のこの理想と全く背馳はいちしている。殊に老婦人の階級はその若い時に教育らしい教育も受けていない人が多く、男子側の老人でさえ内外の新書にしたしむことはまれなのであるから、それらの老婦人たちが現代について精神的に何物も教えられていないのは言うまでもない。それで過去の思想に停滞している老婦人は万事を過去の標準で是非し、若い嫁のする事がすべて気に入らない所から、一一それに世話を焼きたくなる。世話や忠告の程度に留っていればよいが、親切が過ぎては干渉となり、加之おまけに在来の姑と嫁とは殆ど専制時代の君臣の関係であることが正しいとせられているから、干渉が一転すれば強制となり威圧とならずには置かない。