松のや露八(まつのやろはち)




「こんどの冬の陣には、誰が、初伝しょでんを取るか」
「夏の陣には、おれ日記方にっきがた(目録取り)昇格のぼってみせる」
 などと門人たちは、その日を目あてに精錬していた。暮の十二月二十五日と、中元の七月十日とが入江いりえ道場の年二回の表彰日なので、修業の半期半期を、門人たちは、夏の陣、冬の陣、と呼びわけて免許取りの早さばかりきそっていた。
 道場は、一ツ橋門内の藩邸にあって、門生はもちろん、一ツ橋家(徳川慶喜よしのぶの家中の子弟に限られている。皆伝かいでんになると、かかえ教授入江達三郎から上聞じょうぶんに達し、家格にもよるが、召し出されて、御番人格、御小姓場、御書院詰、などへ出頭することになるので、剣道そのものよりは、同僚を追い抜いて、十俵でも禄米のたかを取ろうというのが、ここにむらがれる藩の子弟の唯一の目的であるかに見えた。ご師範――先生――などと敬称はうけても、経済的に門生の心づけがなければ立ちゆかないし、家老だの、勘定方だの、上席の子弟を預かってもいるので、抱え教授というものは、およそ如才じょさいがなく、そのくせ、処世下手べたの無骨者とまっているから、生活には弱かった。
 だが、その入江達三郎でさえ、時には、まゆをひそめることがしばしばである。御三卿ごさんきょうの臣といえば、直参も同様だし、やがては、徳川家の第二の柱石ちゅうせきでもある青年たちが、あまりに、世才せさいに走り、文化に洗練されすぎて、規模が小さく、線が細く、時勢を小馬鹿にしているふうの賢さが、いて、いやな気がした。
 で――時には、彼らを、床に坐らせ、師範席から高く見おろして、一場いちじょう訓諭くんゆれることがある。
「諸君」
 と、肩の肉をもりあげて、
「――そも、今日を、何と心得めさる。時は今、文久元年でござるぞ。幕府にあっては、内憂外患のとき、当一ツ橋様におかれては、御大老井伊掃部頭いいかもんのかみ殿の刺殺しさつせられた後をうけて、将軍家のご後見となり、幕政御改革に、夜も、安らかに、御寝ぎょしんなされぬとれ承る。やがて来るものは何か。薩南さつなんの青年や長土ちょうどの若者は、何を目ざして来つつあるか。おのおのの眼にはうつらぬか。剣道精神と申すものは、かかる有事のときにこそ、発揚すべきもの。竹刀しない打ちの小技こわざや、免許取りに、やつす遊芸ではござらぬぞ」
 そう、たしなめた終りには、必ずまた、もう一言つけ加えることを、入江師範は忘れなかった。
「――よろしいかの、ちと、先輩の土肥庄次郎どいしょうじろうや、お客分の渋沢栄一殿(当時篤太夫とくだゆう、また篤太郎とも称す)の勉強を見習うたがよかろうぞ」


 渋沢栄一は、二十二歳だった。武州榛沢はんざわ村から出てきたばかりで、まだどこか泥くさい田舎いなか出の様子が抜けきれていない。うす菊花石あばたがあって、背の低い方だった。この間まで、下谷練塀小路したやねりべいこうじ海保漁村かいほぎょそんじゅくにいて、神田の千葉の道場で撃剣を修業していたらしいが、何か、一身上のことがあって、この一ツ橋家の公用人平岡円四郎の家へ身をかくしていたのであった。
 藩邸から一歩も出ないので、退屈しのぎに、道場をのぞきに来る。人あたりがいいので、入江達三郎とも、入懇じっこんになり、手すじをみると、出来る。
 言語が明晰めいせきだ。頭脳がいい。
「若いが、謙譲けんじょうで、はらができとる。渋沢氏を、見習いなさい」
 そんなわけで、他流だが、客分として、来ればいつも、道場の上席を与えていた。
 その渋沢栄一と並んで、道場の模範生だった土肥庄次郎は、藩の近習番頭取とうどり、土肥半蔵の長男だった。いつも、鈍々どんどんとして、竹刀しないを持っても、間のぬけたところがある。しかし、真面目まじめで、無口で、からだは図ぬけて大きく、固肥かたぶとりという方で、団栗どんぐりのような眼をもっている。一見豪傑らしいが、その丸っこい眼が、にやっと笑うと、まるで、子どもだ。
「あいつ、やっと、こんどは、皆伝をとるらしい」
「十四歳から道場へ来ておるのだから十三年目の免許皆伝だ。十三年もやれば、傴僂せむしだって、皆伝になる」
「すると、やつ、二十七歳か」
「そうだ」
「二十七歳で、遊蕩あそびを知らんぞ、彼」
「こんど、おびき出すのだな。あいつの、酔ったところを、ぜひ見ておこう。それには、例の日がいいぞ」
 同門の誰彼が、そんなことを、しめしあわせていた。