田舎の時計他十二篇(いなかのとけいほかじゅうにへん)

 海を越えて、人人は向うに「ある」ことを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。しかしながら海は、一の広茫(こうぼう)とした眺(なが)めにすぎない。無限に、つかみどころがなく、単調で飽きつぽい景色を見る。
 海の印象から、人人は早い疲労を感じてしまふ。浪(なみ)が引き、また寄せてくる反復から、人生の退屈な日課を思ひ出す。そして日向(ひなた)の砂丘に寝ころびながら、海を見てゐる心の隅に、ある空漠たる、不満の苛(いら)だたしさを感じてくる。
 海は、人生の疲労を反映する。希望や、空想や、旅情やが、浪を越えて行くのではなく、空間の無限における地平線の切断から、限りなく単調になり、想像の棲(す)むべき山影を消してしまふ。海には空想のひだがなく、見渡す限り、平板で、白昼(まひる)の太陽が及ぶ限り、その「現実」を照らしてゐる。海を見る心は空漠として味気がない。しかしながら物憂(ものう)き悲哀が、ふだんの浪音のやうに迫つてくる。
 海を越えて、人人は向うにあることを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。けれども、ああ! もし海に来て見れば、海は我我の疲労を反映する。過去の長き、厭(いと)はしき、無意味な生活の旅の疲れが、一時に漠然と現はれてくる。人人はげつそりとし、ものうくなり、空虚なさびしい心を感じて、磯草(いそくさ)の枯れる砂山の上にくづれてしまふ。
 人人は熱情から――恋や、旅情や、ローマンスから――しばしば海へあこがれてくる。いかにひろびろとした、自由な明るい印象が、人人の眼をひろくすることぞ! しかしながらただ一瞬。そして夕方の疲労から、にはかに老衰してかへつて行く。
 海の巨大な平面が、かく人の観念を正誤する。(『日本詩人』1926年6月号)


 田舎の時計

 田舎に於(おい)ては、すべての人人が先祖と共に生活してゐる。老人も、若者も、家婦も、子供も、すべての家族が同じ藁屋根(わらやね)の下に居て、祖先の煤黒(すすぐろ)い位牌(いはい)を飾つた、古びた仏壇の前で臥起(ねおき)してゐる。
 さうした農家の裏山には、小高い冬枯れの墓丘があつて、彼等の家族の長い歴史が、あまたの白骨と共に眠つてゐる。やがて生きてゐる家族たちも、またその同じ墓地に葬られ、昔の曾祖母や祖父と共に、しづかな単調な夢を見るであらう。
 田舎に於ては、郷党のすべてが縁者であり、系図の由緒(ゆいしよ)ある血をひいてゐる。道に逢(あ)ふ人も、田畑に見る人も、隣家に住む老人夫妻も、遠きまたは近き血統で、互にすべての村人が縁辺する親戚であり、昔からつながる叔父(おじ)や伯母(おば)の一族である。そこではだれもが家族であつて、歴史の古き、伝統する、因襲のつながる「家」の中で、郷党のあらゆる男女が、祖先の幽霊と共に生活してゐる。
 田舎に於ては、すべての家家の時計が動いてゐない。そこでは古びた柱時計が、遠い過去の暦の中で、先祖の幽霊が生きてゐた時の、同じ昔の指盤を指(さ)してゐる。見よ! そこには昔のままの村社があり、昔のままの白壁があり、昔のままの自然がある。そして遠い曾祖母の過去に於て、かれらの先祖が縁組をした如く、今も同じやうな縁組があり、のどかな村落の籬(まがき)の中では、昔のやうに、牛や鶏の声がしてゐる。
 げに田舎に於ては、自然と共に悠悠として実在してゐる、ただ一の永遠な「時間」がある。そこには過去もなく、現在もなく、未来もない。あらゆるすべての生命が、同じ家族の血すぢであつて、冬のさびしい墓地の丘で、かれらの不滅の先祖と共に、一つの霊魂と共に生活してゐる。昼も、夜も、昔も、今も、その同じ農夫の生活が、無限に単調につづいてゐる。そこの環境には変化がない。すべての先祖のあつたやうに、先祖の持つた農具をもち、先祖の耕した仕方でもつて、不変に同じく、同じ時間を続けて行く。変化することは破滅であり、田舎の生活の没落である。なぜならば時間が断絶して、永遠に生きる実在から、それの鎖が切れてしまふ。彼等は先祖のそばに居り、必死に土地を離れることを欲しない。なぜならば土地を離れて、家郷とすべき住家(すみか)はないから。そこには拡がりもなく、触(さわ)りもなく、無限に実在してゐる空間がある。
 荒寥(こうりよう)とした自然の中で、田舎の人生は孤立してゐる。婚姻も、出産も、葬式も、すべてが部落の壁の中で、仕切られた時空の中で行はれてゐる。村落は悲しげに寄り合ひ、蕭条(しようじよう)たる山の麓(ふもと)で、人間の孤独にふるへてゐる。そして真暗な夜の空で、もろこしの葉がざわざわと風に鳴る時、農家の薄暗い背戸(せど)の厩(うまや)に、かすかに蝋燭(ろうそく)の光がもれてゐる。馬もまた、そこの暗闇(くらやみ)にうづくまつて、先祖と共に眠つてゐるのだ。永遠に、永遠に、過去の遠い昔から居た如くに。(『大調和』1927年9月号)