死せる魂(しせるたましい)


 だらだらと退屈な長の道中のあいだ、寒さや、雪融や、泥濘や、寝ぼけ眼の宿場役人や、うるさい鈴の音や、馬車の修理や、啀みあいや、さては馭者だの、鍛冶屋だの、その他いろんな街道筋の破落戸ごろつきどものためにさんざん悩まされた挙句、やっとのことで旅人の眼に、自分を出迎えにこちらへ近寄って来るような、懐かしい我が家の灯影がうつりだす――と、やがて彼の目前には見馴れた部屋々々が現われ、迎えに駈け出した人々の歓声がどっとあがり、子供たちがわいわい騒いで駈けまわる、次いで心もなごむような落着いた話に移るのであるが、それが又、旅の憂さをすっかり忘れさせるような熱い接吻でとぎれ勝ちになる――といった具合だったら、まったく申し分はない。そういう隠処かくれがのある世帯持は幸福だが、情けないのは独身者ひとりもので!
 また作家にしても、あの惨めな現状で人に眼を蔽わしめるような、甚だ面白くない、退屈きわまる人物などはそっちのけにして、もっと卓越した人柄の持主を題材とし、日毎に移りゆく世相の大いなる淵瀬から、ただ少数の例外だけを選り出して、己が竪琴の高雅な調子しらべを一度として変えたこともなければ、自分の立っている高所たかみから、取るにも足らぬ哀れな文士仲間と同じレベルなどへは決して降ることもなく、地上のことなどには一切かまわず、常に世俗から遠く掛けはなれた、いとも高尚な物象に一心を打ちこむことの出来る人は幸福である。彼はそういうものの間で、さながら自分の家族にでも取りかこまれたように、ほしいままに振舞っているが、その間にも彼の名声は遠く高く轟きわたるのだから、いよいよ以ってその素晴らしい運命が二重に羨ましい次第である。彼は身も心もとろけるような薫煙をたなびかせて人の眼を惑わし、世上の悲惨なものは押しかくし、美しい人間像だけを示して巧みに人心にとりいる。人々は挙って拍手を送りながら、勝ち誇った彼の戦車の後を追って駈けだしてゆく。彼は世界的の大詩人とあがめられて、あたかも他の群鳥を尻目に悠々と高く天翔ける鷲のように、他の群小詩人を睥睨しながら、泰然とおさまっている。その名声を聞いただけで、熱し易い若者の胸は感激に打ち顫え、万人の眼には随喜の涙がキラキラと光る……。彼に匹敵する者はない――彼は神だ! ところが四六時ちゅう眼前にころがっていても、無関心な人には一向眼につかない物象――つまり、我々の生活を取りまいている諸々の瑣事の人を顫えあがらせるような怖ろしい泥沼や、又ともすれば退屈で物悲しい浮世の旅にうようよと群がっている、冷淡で、とりとめのない、日常茶飯な性格の奥底をば遠慮会釈なく曝露し、仮借なき鋭利なのみで、万人の眼にはっきり映るように、それを浮彫にして見せる作家――そういう作家の辿る運命は全然ちがう! 彼は大向うからの拍手喝采を期待することも出来なければ、自分が感動させた読者の随喜の涙や同感の歓びを見ることも出来ない。血道をあげた十六娘が、前後のわきまえもなく、大胆に彼に向って飛びついて来ることもなければ、自分自身の掻きたてた世評に陶然として我れを忘れることもない。最後に彼は、その時代の批判を免れることが出来ない。それは彼の愛しみ育てた創作を、取るにも足らぬ卑しいものと名づけ、彼を侮蔑して、人間性を無視した作家たちと同列に置き、彼が自作に表現した主人公と同等の資格を押しつけて、彼から心も魂も聖なる天稟の炎をも取り去ってしまう。というのは、同時代の批判というものは、太陽を覗くレンズも、眼に見えぬ虫の動きを見せるレンズも、同じように素晴らしいものだという事実を認めないからであり、また、賤しい生活の中から取りあげた画面に光彩を添えて、それを創造の珠玉にまで高めるためには、精神的な深さが非常に必要であることを認めないからである。また同時代の批判は、高尚で熱狂的な笑いは、高い抒情的な感動と同列に置くだけの値打があって、かの大道芝居の道化のくすぐりなどとは凡そ同日に談ずべくもないことを理解しないからである! 同時代の批判は全然そういうことを理解しないで、凡てをこの認められざる作家に対する非難と悪罵に変えるのである。そこで彼は、苦衷を共に分つ相手もなく、何の反響もなければ、同情もなく、あたかも家なき旅人のように孤影悄然として道の只中に取り残されるのである。その立場は実に荒涼落莫たるもので、彼は自分の孤独をしみじみ情けなく思うのである。
 わたしは不思議な力に引きずられて、まだこれから先きも長いこと、この奇妙な主人公と手に手を取って進みながら、巨大な姿で移りゆく世相を、眼に見ゆる笑いと、眼に見えず世に知られぬ涙をとおして、残る隈なく観察すべき任務を負わされているのだ! もっと別な源泉から、聖なる恐怖と光明につつまれた章の中から、霊感の嵐が巻きおこり、読者がおどおどした胸騒ぎを以って、他の荘厳なる声の轟きに耳を傾けるのは、まだまだずっと先きのことである……。