球突場の一隅(たまつきばのいちぐう)

     一

 夕方降り出した雨はその晩遅くまで続いた。しとしととした淋しい雨だった。丁度十時頃その軽い雨音が止んだ時、会社員らしい四人達れの客はあわただしそうに帰っていった。そして後には三人の学生とゲーム取りの女とが残った。
 室の中には濁った空気がどんよりと静まっていた。何だか疲れきったような空気がその中に在った。二つの球台たまだいの上には赤と白と四つの象牙球が、それでも瓦斯の光りを受けて美しく輝いていた。そして窓から、外の涼しい空気がすっと流れ込んだ時、ただ何とはなしに皆互の顔を見合った。
 室の奥の片隅にゲーム取りの女と一人の学生とが腰掛けていた。それと少し離れてすぐ球台の側の椅子に二人の大学生が並んでいた。村上という方は、色の白い眉の太い大柄おおがらな肥った男である。大分強い近眼鏡をかけているが、態度から容貌から凡て快活な印象を与える。之に反しても一人の方は、細そりとした身体つきで、浅黒い頬には多少神経質な閃きが見られた。遠くを見るような眼附をしながら、じっと眼を伏せる癖があった。松井という姓である。
「おい!」と村上は小声で松井の方を向いた。彼は眼の中で笑っていた。
 松井はただじっと村上の顔を見返しただけで、何とも云わなかった。
 村上はそのまま視線をそらして室の中をぐるりと見廻したが、急に立ち上った。
「おたかさん一つやろうか。」
「ええお願いしましょう。先刻さっきの仇討ちですよ。」
「なにいつも返り討ちにきまっているじゃないか。」
「へえ、今のうちにたんと大きい口をきいていらっしゃいよ。」
 女は立って来て布で球を拭いた。そしてそれを並べながら松井の方に声をかけた。
「松井さん、あちらでこちらのかたと如何です。」
「今日はもう疲れちゃった。」と松井は投げるように云った。
 其処にお上さんが奥から茶を汲んで出て来た。もう可なりのお婆さんである。いつも髪を小さく束ねて眉を剃っている。妙に人の顔をじろじろ見る風があった。
「どうかなすったんですか。」と上さんはすぐに会話を奪ってしまった。
「え!」と松井は怪訝な顔をした。
「大層沈んでいらっしゃるじゃありませんか。」
「そうですかね。」
「おやおや。まあお熱いところでも召上れ。」
 上さんはこう揶揄うように云いながら彼に茶をすすめた。そして向うに黙っているも一人の学生に声をかけた。
「林さん、こちらと一ついらっしゃい。」
 林と呼ばれた男はやはり黙ったまま笑顔をしてこちらを見ていた。
「さあいらっしゃいよ。」と上さんはまた松井を促した。
「今日は止しましょう。」と暫くして松井は云った。
「懐で物案じというんですね……。」と云いかけたが、彼女は急に調子を変えた。「まあご悠り遊んでいらっしゃい。」
 そして彼女は奥に入りながら、球をついていた村上に声をかけた。
「村上さん沢山負かしておやりなさい。この節は鼻っぱしばかり強くていけませんよ。」
 こう云われておたかは眼で笑ってみせた。
 夜遅くなるといつもおたか一人で、余り突けもしないが客の対手をしたりゲームを取ったりした。いつもは主人が客の対手をするんだが、もう大分頭の禿げかかった彼は、夜は眼がよく利かないと云って早くから奥にはいるのであった。で客の多い時は上さんが出て来て一方のゲームを取ったが、大抵はおたか一人であった。でよく夜更けまでおたかを相手に遊んでいく客があった。村上と松井と林とは殊に夜更かしの連中であった。村上と松井とは連れであった。林はいつも一人でやって来た。彼等が林という名前を知ったのも、「林さん如何です。」というおたかの言葉からであった。
 松井はその日午後から気分が晴々としなかった。考えるもの見るもの凡てが、しきりに胸の奥へ沈み込んでゆくような心地であった。そういう憂鬱は彼には珍らしくもなかった。彼はその時何時も自然に種々なことをしきりに考え込んだ。
 で彼はまたぼんやりと取りとめも無い思いに耽りながら、村上とおたかとに突かかる球を見ていた。それからふと視線をそらして林を見ると、林は一心に球の方を見つめている。
 その時松井の心にふと嫌悪の情が閃めいた。
 松井と村上とはよく遅くまで球突場を去らないことがあった。林もよく遅くまで遊んでいった。度々彼等は一緒になることがあった。そういう時は、屹度一方が帰るまで片方も立ち上らなかった。何ということなしに自然にそうなったのである。
 俺は何も林の向うを張るんじゃない、と松井は思った。第一おたかに対しても何の感情も持っていない。よしまた俺のうちに自分で自覚していない感情があるにしても、林なんかと競争をするものか。その妙にだだっ広い額、鼻筋の低い鼻、薄い髪の毛、ゆるんだ唇、もうそれで沢山だ!
 彼はつと立ち上って、窓に凭れて外を眺めた。すぐ前に大きい檜葉ひばがあって、その向うの右手の隅に八手やつでがあった。その葉には雨の露がまだ一杯たまっていた。でも空は綺麗に晴れて星がきらきらと輝いていた。星の光を見ていると、雨に清められた夜の空気が胸に染み込んでくるような気がした。