球突場の一隅(たまつきばのいちぐう)

 その時松井の心におたかの顔がはっきり浮んできた。大きい束髪に結っている、眉の濃い口元のしまった男性的な顔付である。馬鹿に表情の複雑な眼が光っている……。松井はその顔を不意にはっきり思い浮べたことを意識して、心にある動揺を感じた。
「君は一体、」と村上はまた云った。「物事を余り真面目に考えすぎるからいけないんだ。世の中のことは万事喜劇にすぎないんだからね。」
 村上に云わせると斯うである――人生はある事件々々の連続である。所が事件と事件との連絡関係は人力の如何ともすべからざるものである。それは人間以外のものによって決定される。人は只運命に任せる外はない。けれども一つの事件そのものは人の見方によってどうにでもなるものである。見方によって赤となり青となる。が事件そのものは常に喜劇の形を取っている。其処には偶然があり意外があり無知があり滑稽がある。で運命に頭を下げ乍らも事物を大袈裟に考えてはいけない。物事をこきおろして正当な評価をすることは、最も強く生きる途である。
「だから、」と村上は続けた。「君のように絶えず真面目を求めすぎると大変な損をするよ。少しは遊びをしなくてはね。」
「けれど君、」と松井は反駁した。「人事の上に超然として遊びが出来るためには自分に大なる力を持っていなくちゃならない。そうでないとずるずる引きずり込まれてしまう恐れがあるんだからね。でそういう力は何処から来るんだ? 僕は凡てを真面目に考える処からその力が湧くんだと思っている。そして真面目を徹底した処に本当の遊びがあると思っている。」
「それは君の所謂神の域に達したものなんだろう。けれど君そうやたらに神様になれるもんかね。そう理想と現実とをごちゃごちゃにしちゃあ苦しくってやりきれない。そりゃあ僕だって神にはなりたいやね。」
「とんだ神だね。」
「なにこれで案外君より上等の神になれるかも知れないよ。」
 一寸言葉がと切れると、二人の心の底にある寂寥の感が湧いた。それは空腹の感じと似寄った感じだった。それきり二人共黙り込んでしまった。
 すっかり戸が閉されてしまった通りには、がらんとした静けさがあった。稀に通り過ぎる人は足を早めた。そして雨あがりの水溜りや泥濘の上に、赤い火がきらきらと映っていた。

     二

 松井と村上とは相変らず球突場に通った。
 夜に電燈がともるとすぐに、広い室の青い瓦斯の光りが思い出せた。すうっと羅紗の上を滑ってゆく赤と白と四つの球が眼にちらついて来た。すると遠いなつかしい音をきくように、こーんこつという球音が響いてくる。そしてゲームを取るおたかの透き通った声までが聞えるように思えた。
 松井と村上とは孰れからということなしに誘い合って球突場に行った。
 それは一種の惰性であった。然し惰性ならぬものが次第に彼等二人のまわりに、そして林やおたかのまわりに絡まっていった。松井、村上、それと林とは、いつもよくおたかの側に夜更しの競争をした。そのことが松井を苛ら苛らさした、村上を微笑ました、そして一層林を沈黙にさした。
 おたかは時々二日三日と続けて家に居ないことがあった。その時は大抵林も姿を見せなかった。
 妙な暗示が松井と村上とに伝わった。
「留守見舞は余り気がきかなさすぎるね。」
 球突場を出ながら村上はこんなことを云った。
「僕はあの林が大嫌いだ。いやな奴だ。」
「あれで中々うまいことをやってるんだね。」
「どうして?」
「どうしてってそりゃあ君……。」と云いながら村上は笑ってしまった。
 それは或る綺麗に晴れた晩だった。袷の肌には外の空気が少し冷やかすぎる位であった。松井は村上に誘われて、ぶらりぶらりと当もなく散歩に出かけた。
 彼等は明るい電車通りをって歩いた。村上は心に何かありそうな顔色をしていた。それが松井にも伝った。孰れも球を突こうとも云い出さないでただ歩いた。然し歩いているうちに歩くことが無意味に馬鹿々々しく思えて来た。
麦酒ビールでも飲もうか。」と村上が云った。
「よかろう。」
 二人はさる西洋料理屋の二階に上った。そしてすぐ右手の狭い室にはいった。室には他に客はなかった。食卓の上に只一つ蘇鉄の鉢がのっていて、それが向うの柱鏡に映っていた。
 二人は料理を食って麦酒を飲んだ。それから洋酒も一二杯口にした。そして何だか互に視線を避けるような心地で居た。
「ちっとも飲まないね。」
「なにこれからだよ。」と云って村上は洋盃をとり上げた。
「酔って球を突いたら面白いだろうね。」
「そう今晩また出かけようかね。」
「ああいってみようよ。」
「実は……、」と云いかけて村上は相手の顔を覗き込むようにした。「僕はちとあの家には不愉快なことがあるんだ。」
「どうしたんだ。」
「なに昨夜ね、一人で出かけちゃったんだ。十一時頃までついたがね。おしまいには僕一人になってしまったんだ。林もやって来ないしね。するとおたかがね、お対手がなくて淋しいでしょうと云って、変に皮肉な笑い方をしたんだ。……一体君はおたかと林とをどう思ってる?」