ジャン・クリストフ(ジャン・クリストフ)

いずれの国の人たるを問わず、

苦しみ、闘い、ついには勝つべき、

あらゆる自由なる魂に、ささぐ。

          ロマン・ローラン
[#改ページ]


昼告ぐるあけぼのの色ほのかにて、
が魂は身内に眠れる時……
     ――神曲、煉獄の巻、第九章――
[#改ページ]

     一

うち湿りたる濃きもや
薄らぎそめて、日の光
おぼろに透し来るごとくに……
     ――神曲、煉獄の巻、第十七章――


 河の水音は家の後ろに高まっている。雨は朝から一日窓に降り注いでいる。窓ガラスの亀裂ひびのはいった片隅には、水のしたたりが流れている。昼間の黄ばんだ明るみが消えていって、室内はなま温くどんよりとしている。
 赤児あかご揺籃ゆりかごの中でうごめいている。老人は戸口に木靴を脱ぎすててはいって来たが、歩く拍子に床板ゆかいたきしったので、赤児はむずかり出す。母親は寝台の外に身をのり出して、それをすかそうとする。祖父は赤児が夜の暗がりをこわがるといけないと思って、手探りでランプをつける。その光で、祖父ジャン・ミシェル老人の赤ら顔や、硬い白髯しろひげや、気むずかしい様子や、鋭い眼付などが、照らし出される。老人は揺籃のそばに寄ってゆく。その外套がいとうは雨にぬれた匂いがしている。彼は大きな青い上靴うわぐつを引きずるようにして足を運ぶ。ルイザは近寄ってはいけないと彼に手真似まねをする。彼女は白いといってもいいほどの金髪で、顔立はやつれていて、羊のようなやさしい顔には赤痣あかあざがあり、くちびるあおざめて厚ぼったく、めったにあわさらず、浮べる微笑もおずおずとしている。彼女は赤児を見守っている――ごく青いぼんやりした眼で、そのひとみはきわめて小さいがいたって物優しい。
 赤児は眼を覚して泣く。その定かならぬ目差まなざしは乱される。なんという恐ろしさだろう! 深いやみ、ランプの荒々しい光、渾沌こんとんのなかから出てきたばかりの頭脳の幻覚、周囲にたちこめている息苦しいざわめく夜、底知れぬ影、その影の中からは、まぶしい光線のように強く浮かび出してくる、強烈な感覚が、苦悩が、幻影が、こちらをのぞきこんでるそれらの巨大な顔が、自分を貫き自分のうちにはいり込む意味の分らないそれらの眼が!……赤児は声をたてる力もない。彼は身動きもせず、眼を見開き、口を開け、のどの奥で息をしながら、恐怖のために釘付くぎづけにされる。そのふくれた大きな顔にはしわが寄って、痛ましい奇怪な渋面じゅうめんになる。顔と両手との皮膚は、栗色で紫がかっており、黄っぽい斑点がついている……。
「いやはや、なんて醜い奴だ!」と老人は思い込んだ調子で言った。
 彼はランプをテーブルの上に置きに行った。
 ルイザはしかられた小娘のように口をとがらした。ジャン・ミシェルは横目で彼女をながめて、そして笑った。
「きれいな奴だと言ってもらおうとは、お前も望んでやすまい。お前にだってきれいだとは思えまい。だがいいさ、お前のせいじゃない。赤ん坊てものはみんなこんなものだ。」
 子供はランプの炎と老人の目差まなざしとに驚き、ただ惘然ぼうぜんとして身動きもしなかったが、やがて声をたて始めた。おそらく彼は母親の眼の中に、苦情を言うがいいと勧めるような愛撫あいぶを、本能的に感じたのであろう。彼女は彼の方へ両腕を差出して言った。
「私にかしてください。」
 老人はいつもの癖で、まず理屈を並べたてた。
「泣くからといって子供の言うままになってはいけない。勝手に泣かせることだ。」
 しかし彼は子供のところへ来て、それを抱き上げ、そしてつぶやいた。
「こんな醜い奴は見たことがない。」
 ルイザはわなわなしてる手で子供を受取り、胸深く抱いた。彼女はきまり悪げなまた喜びにたえないような微笑を浮べて、子供を見守った。
「おう、かわいそうに、」と彼女はたいそう恥ずかしそうにして言った、「坊やはなんて醜いでしょう、なんて醜いでしょう、ほんとにかわいいこと!」
 ジャン・ミシェルは暖炉のそばにもどった。彼は不機嫌な様子で、火をかきたて始めた。しかしその顔に装ってる陰鬱なしかつめらしさは、軽い微笑の影で裏切られていた。
「お前、」と彼は言った、「ねえ、苦にしちゃいけない。まだまだこれから顔付は変わるものだ。それに、醜いったってそれがなんだ? この子に求むることはただ一つきりだ、りっぱな者になってくれということだ。」
 子供は母親の温かい身体にさわって心が和らいでいた。息を押えてむさぼるように乳を吸ってる音が聞えていた。ジャン・ミシェルは椅子いすの上で軽く身をそらして、おごそかにくり返した。