序
ジャン・クリストフの多少激越なる批評的性格は、相次いで各派の読者に、しばしばその気色を寄せしむるの恐れあることと思うから、予はその物語の新たなる局面に入るに当たって、予が諸友およびジャン・クリストフの諸友に願うが、吾人の批判を決定的のものとみなさないでいただきたい。吾人の思想のおのおのは、吾人の
生涯の一瞬間にすぎない。もし生きるということが、おのれの
誤謬を正し、おのれの偏見を征服し、おのれの思想と心とを日々に拡大する、というためでないならば、それは吾人になんの役にたとう? 待たれよ! たとい吾人に
謬見あろうとも、しばらく許されよ。吾人はみずから謬見あるべきを知っている。そしておのれの誤謬を認むる時には、諸君よりもさらに
苛酷にそれをとがむるであろう。日々に吾人は、多少なりとさらに真理に近づかんと努めている。吾人が終末に達する時、諸君は吾人の努力の価値を判断せらるるであろう。古き
諺の言うとおり、「死は一生を
讃め、
夕は一日を
讃む。」
一九〇六年十一月
ロマン・ローラン
[#改丁]
一 流沙
自由!……他人にも自分自身にもとらわれない自由! 一年この方彼をからめていた情熱の網が、にわかに断ち切れたのであった。いかにしてか? それは彼に少しもわからなかった。網の目は彼の生の圧力をささえることができなかった。強健なる性格が、昨日の枯死した包皮を、呼吸を妨ぐる古い魂を、荒々しく裂き捨てる、生長の発作の一つであった。
クリストフは何が起こったのかよくわからずに、ただ胸いっぱいに呼吸した。ゴットフリートを見送ってもどって来ると、氷のような
朔風が、町の大門に吹き込んで
渦巻いていた。人は皆その強風に向かって頭を下げていた。出勤の途にある工女らは、
裳衣に吹き込む風と腹だたしげに争っていた。鼻と
頬とを
真赤にし、腹だたしい様子で、ちょっと立ち止まっては息をついていた。今にも泣き出しそうにしていた。クリストフは喜んで笑っていた。彼は
嵐のことを考えてはいなかった。他の嵐のことを、今のがれて来たばかりの嵐のことを考えていた。彼は冬の空を、雪に包まれた町を、苦闘しつつ通ってゆく人々を、ながめまわした。自分のまわりを、自分のうちを、見回した。もはや何かに彼をつないでるものはなかった。彼はただ一人であった。……ただ一人! ただ一人であることは、自分が自分のものであることは、いかにうれしいことだろう。つながれていた鎖を、思い出の苦痛を、愛する面影や
嫌悪すべき面影の幻を、のがれてしまったことは、いかにうれしいことだろう。ついに生きぬき、生の
餌食とならず、生の主人となることは、いかにうれしいことだろう!
彼は雪で真白くなって家に帰った。犬のように愉快げに身を揺った。廊下を掃いていた母のそばを通りかかると、あたかも子供にでも言うように、愛情のこもった舌ったるい声を出しながら、彼女を抱き上げた。年老いたルイザは、雪が
融けて湿ってる
息子の腕の中で、身をもがいた。そして子供のような
仇気ない笑いをしながら、「大
馬鹿さん!」と彼を呼んだ。
彼は自分の居室へ
大股に上がっていった。小さな鏡に顔を映したが、よく見えなかった。それほど薄暗かった。しかし彼の心は喜び勇んでいた。ろくに動きまわることもできないほどの狭い低い室も、彼には一王国のように思われた。彼は
扉を
鍵で
閉め切り、満足して笑った。ついに自分自身をまた見出しかけていたのだ! いかに久しい前から自分を取り失っていたことだろう! 彼は急いで、自分の考えの中に沈潜していった。その思想は、遠く金色の
靄の中に
融け込んでゆく大きな湖水のように思われた。苦熱の一夜を明かした後、足を
清冽な水に洗われ、身体を夏の朝の微風になでられながら、その湖水のほとりに立っていたのだ。彼は飛び込んで泳ぎ出した。どこへ行くのかわからなかった。しかもそれはほとんどどうでもいいことだった。ただ当てもなく泳ぎ回るのが愉快だった。彼は笑いながら、自分の魂の無数の音に耳傾けながら、黙っていた。魂には無数の生物がうごめいていた。何にも見分けられなかった。頭がくらくらした。ただ
眩いほどの幸福ばかりを覚えた。自分のうちにそれらの見知らぬ力を感じてうれしかった。そして自分の能力をためすことは不精げに
後回しとして、まず内心に咲き乱れてる花に誇らかに酔って、陶然としてしまった。数か月来押えつけられていたのが、にわかに春が来たように、一時に咲きそろった花であった。
母は彼を食事に呼んでいた。彼は降りていった。一日戸外で暮らしたあとのように、頭が
茫然としていた。しかし彼のうちには深い喜悦の色が輝いていた。ルイザは彼にどうしたのかと尋ねた。彼は答えなかった。母の胴体をとらえて、スープ
鍋から湯気が立っている食卓のまわりを、無理に一回り踊らした。ルイザは息を切らして、彼を狂人だと呼びたてた。それから彼女は手を打った。