ジャン・クリストフ(ジャン・クリストフ)

 最近まで彼は、他人の苦しみにはあまり注意を払わなかった。彼はあまりに自分のうちに閉じこもってる知者だった。それは利己心ではなくて、夢想にばかりふける病的な習慣だった。ジャックリーヌは彼の周囲のその空虚をさらに広げてしまった。彼女の愛は、彼と他の人々との間に魔法的な区画線を引き、愛が消えてしまったあとにもなおそれが残存していた。そのうえ彼は、気質からして一の貴族だった。幼年時代から彼は、やさしい心根にもかかわらず、身体と魂との生まれつきの繊弱さのために、大衆から遠ざかっていた。公衆のにおいや思想に嫌悪けんおの情を覚えた。
 しかし、ごくありふれた一つの雑事を目撃してからは、すべてが一変してしまった。

 彼は、クリストフやセシルの住居とあまり遠くないモンルージュの高地に、ごく粗末な部屋を借りていた。卑俗な町で、その家には、わずかな定期収入をもってる者や、下級の勤め人や、労働者の家族などが住んでいた。他の時ならば、彼は自分がまったく他国人の感じがするその周囲を苦にしたかもしれない。しかしそのころ彼は、どこに住んでも大して違いがなかった。どこへ行っても他国人の気がするのだった。隣にどういう人たちがいるかほとんど知らなかったし、また知りたくもなかった。仕事――(彼はある出版屋に勤めていた)――からもどって来ると、追憶とともに室に閉じこもって、子供やクリストフへ会いに行くほかは外出しなかった。彼にとってその住居は家庭ではなかった。過去の面影が固着してる暗室だった。室が暗くて無装飾であればあるほど、ますますはっきりと映像が浮き出してくるのだった。彼は階段ですれ違う人々の顔にもほとんど注意を向けなかった。けれども知らず知らずのうちに、ある幾つかの顔が彼の頭に残っていた。ある種の精神の人々は、事物を過ぎ去ったあとにしかよく見ようとしない。しかし過ぎ去ったあとでは、何にも彼らの眼をのがれるものはなく、ごく些細ささいな事物までが深く刻みつけられている。オリヴィエもそういう種類の男だった。彼は生きてる人々の影でいっぱいになっていた。一つの感動に打たれると、それらの影が浮き上がってきた。するとオリヴィエはびっくりし、知り合いでもなかったそれらの影を認め知り、時としては手を差し出してとらえようとした……がもう時期遅れだった。
 ある日彼は、家から出かけるとき、門の前に人だかりがしてるのを見た。そのまん中で門番の女がしゃべりたてていた。彼はあまり好奇心を覚えなかったので、訳を尋ねもしないで通り過ぎようとした。しかし門番の女は、一人でも多く聞き手を集めたがって、彼を呼び止め、この気の毒なルーセル一家にどんなことが起こったか知ってるかと尋ねた。オリヴィエは「気の毒なルーセル一家」が何物であるかをも知らなかった。そして彼は丁寧ていねいな冷淡さで耳を貸した。父と母と五人の子供との労働者一家が、この家の中で貧困のあまり自殺をしたところだ、ということを知ったとき、彼は他の人々と同様に立ち止まって、家の壁をながめながら、あかずに話を繰り返してる女の言葉に耳を傾けた。彼女が話してゆくに従って、彼のうちには種々の思い出がよみがえってきて、その人たちに会ったことがあるのに気づいた。彼は、二、三の質問をしてみた……。まさしく彼らを知ってたのである。主人――(彼はその音のする呼吸を階段でよく聞いたのだった)――はパン屋の職人で、あおざめた顔色をし、かまどの熱気に貧血し、ほおはくぼみ、ひげもよくっていなかった。冬の初め肺炎にかかった。すっかり回復しないうちにまた働き出した。突然病気が再発した。三週間ばかり前からは、仕事もなければ体力もなかった。上さんは引きつづいて妊娠ばかりしており、リューマチで身体もきかなかったが、一生懸命に骨折ってどうにか世帯のことをし、毎日毎日駆けずり回っては、貧民救済会からわずかな助けを得ようとした。それもなかなか急には得られなかった。そのうちにも、子供は引きつづき生まれた。十一歳、七歳、三歳――そのほか、間に亡くなった二人、なおその上に、ちょうど折りしくも双生児ふたごが生まれた。前月生まれたのだった。
「双生児の生まれた日にね、」と隣のある女が話した、「五人のうちの総領娘で、十一になるジュスティーヌが――かわいそうな子じゃありませんか!――どうして二人の赤ん坊を背負えるかしらって尋ねながら、泣き出したんですよ……。」
 オリヴィエはただちに、その少女の姿を思い出した――大きな額、後ろに引きつめられたつやのない髪、とびだしてる濁った灰色の眼。外で出会うといつも彼女は、食料品を運んでいたり、小さい妹を負ったりしていた。あるいはまた、ほっそりして虚弱で片目である七歳の弟の、手を引いてることもあった。オリヴィエは階段などですれ違うと、ぼんやりした丁寧さで言うのだった。