ジャン・クリストフ(ジャン・クリストフ)

「ごめんなさい、お嬢さん。」
 彼女のほうではなんとも言わなかった。ほとんど身をかわしもしないでつんとして通り過ぎた。しかし彼のからお世辞も、彼女には内心うれしかった。前日の晩六時ごろ、彼は階段を降りてゆくとき、最後に彼女に出会った。彼女は一おけの木炭を運び上げていた。荷は重そうだった。しかしそんなことは下層の子供たちには普通の仕事である。オリヴィエはいつものとおり、彼女の顔に眼をやりもしないで挨拶あいさつした。数段下へ降りて、なんの気もなく見上げてみると、彼女の引きつった小さな顔が、階段の中段の所からじっと、降りてゆく彼のほうをながめていた。彼女はすぐにまた上りだした。どこへ上って行くのか彼女はみずから知っていたろうか!――オリヴィエは夢にも知らなかった。そして今彼は、死を――解放を、重すぎるおけの中に入れて運んでいたその少女のことで、頭がいっぱいになった……。不幸な子供らよ、彼らにとっては、もう生きないということはもう苦しまないという意味だったのだ! オリヴィエは散歩をつづけることができなかった。彼は自分の室へもどった。しかしそこで彼は、あの死人たちが自分の近くにあることを感じた……幾つかの壁で隔てられてるのみだった……。それらの苦悩のそばに暮らしてきたことを考えてもみると!
 彼はクリストフに会いに行った。胸がしめつけられるような心地だった。多くの人々が自分のより何倍もひどい不幸を苦しんでおり、しかも救われることができる場合にあるのに、自分のようにいたずらな愛の未練にとらわれてるのは、いかに奇怪なことであるかと、彼は考えた。彼の感動は深いものだった。すぐに他の者へも伝わることができた。クリストフもやはり心を動かされた。オリヴィエの話を聞いて彼は、児戯に類した慰みをやってる利己主義者だと自分を見なして、書いたばかりの楽譜を引き裂いた……。しかしそのあとで、引き裂いた紙片を拾い集めた。彼はあまりに自分の音楽に心ひかれていた。そして、芸術上の作品を一つ減らしたとて幸福が一つ増すものでないと、本能的に考えた。その種の貧困の悲劇は、彼にとっては珍しいものではなかった。幼年のころから彼は自分で、そういう深淵しんえんの縁を歩くことに慣れていたし、それに落ち込みもしなかった。そして現在では、みずから力の充実した感じがしていたし、いかなる苦しみのためにもせよ奮闘を断念するということは、考え得られなかったので、自殺にたいしては峻厳しゅんげんな考えをもってさえいた。苦しみと闘い、それこそもっとも普通のことではないか。それこそ世界の背骨である。
 オリヴィエも同様な試練を経て来ていた。しかし彼はかつて自分のためにも他人のためにも、それに忍従することができなかった。大事なアントアネットの一生を滅ぼしたあの困窮について、嫌忌けんきの念をいだいていた。ジャックリーヌと結婚して後、富と愛とのために柔弱になされたとき、彼は、姉と自分とが昔、翌日のかてかせぎ出さんがために覚束おぼつかない努力をしていた、あの悲しい年月の思い出を、急いで遠ざけたのだった。それらの遠い思い出が、擁護すべき恋愛的利己心のもはやなくなった今、ふたたび浮かび出してきた。苦しみの前から逃げるどころか、反対に彼は苦しみを捜しにかかった。それを見出すには遠く進むの要はなかった。彼のような精神状態にあっては、至る所にそれが見てとられた。それは世間に満ちていた。世間、この大なる病院……。多くの悩み、苦しみ。生きながら腐敗しあえいでいる、傷ついた肉体の苦痛。苦悶くもんにさいなまれてる心の、黙々たる苦悩。愛を受けない子供、希望のない娘、誘惑されそして裏切られた女、友情や恋愛や信念などにおいて欺かれた男など、人生から傷つけられてる、痛ましい不幸者の群れよ!……もっとも獰猛どうもうなのは、貧窮や病気ではない。人間相互の残酷性である。この世の地獄をふたしている揚げ戸をもち上ぐるや否や、オリヴィエの所まで、叫喚の声が立ちのぼってきた。圧制された人々、利用された貧しい人々、迫害された民衆、虚殺されたアルメニア、窒息させられたフィンランド、切断されたポーランド、さいなまれたロシア、ヨーロッパのおおかみどもの貪食どんしょくゆだねられたアフリカ、全人類のうちのみじめなる人々、それらの叫喚の声が立ちのぼってきた。彼は息がつけなかった。至る所にそれが聞こえてきた。それ以外のことに考えを向けられようとは、もはや信じられなかった。彼はそのことをたえずクリストフに話した。クリストフはうるさがって言った。
「もう言わないでくれ! 僕の仕事を邪魔しないでくれ。」
 そして心の平衡を回復することができないと、いらだってののしった。
「畜生! 一日無駄むだになってしまった。うるさいやつだね!」