霧陰伊香保湯煙(きりがくれいかほのゆけぶり)

        一

 さて、お話も次第に申し尽し、種切れに相成りましたから、何かい種を買出したいと存じまして、或お方のお供を幸い磯部いそべへ参り、それから伊香保いかほの方へまわり、遊歩かた/″\実地を調べて参りました伊香保土産のお話で、霧隠伊香保湯煙きりがくれいかほのゆけぶりと云う標題に致してお聴きに入れます。これは実際有りましたお話でございます。の辺は追々と養蚕がさかんに成りましたが、是は日本にっぽん第一の鴻益こうえきで、茶と生糸の毎年まいねんの産額は実におびたゞしい事でございます。外国人も大して之を買入れまする事で、現に昨年などは、外国へ二千万円から輸出したと云いますが、追々勉強でございまして、あの辺は山を開墾してだん/″\に桑畑にいたします。それにまた蚕卵紙たねがみかいこに仕立てます故、丹精はなか/\容易なものでは有りませんが、此の程は大分だいぶ養蚕が盛で、田舎は賑やかでございます。養蚕を余り致しませんところ足利あしかゞの方でございます。此処こゝはまた機場はたばでございまして、おもに織物ばかり致します。高機たかはたを並べまして、機織女の五十人も百人も居りまして、並んで機を織って居ります。機織女は何程位どのくらいな賃銀を取るものだと聞いて見ると、実に僅かな賃でございます。機織女を抱えますのに二種有ります。いつ反織たんおりと云い、一を年季と申します。反織の方は織賃銀何円に付いて何反なんだん織ると云う約定で、すべて其の織る人の熟不熟、又勤惰きんだによって定め置くものでござります。勉強次第で主人の方でも給金を増すと云う、兎に角うちへ置いて其の者の腕前を見定めてから給料の約束を致します。又一つの年季と申しますると、一年も三年もあるいは七年も八年もございますが、何十円と定めまして、其の内前金ぜんきんります。皆手金の前借が有ります。それで夏冬の仕着しきせ雇主やといぬしより与える物でございます。これは機織女を雇入れます時に、主人方へ雇人請状やといにんうけじょうを出しますので、若い方が機に光沢つやが有ってよいと云うので、十四五か十七八あたりの処が中々上手に織りますもので、六百三十五もんめ、ちっと木綿にきぬ糸が這入りまして七十寸位だと申します。其のうちで二崩しなどと云う細かいしまは、余程手間が掛ります。一機ひとはた四反半掛に致しましても、これを織り上げて一円の賃を取りまするのは、中々容易な事ではございません。機織場のうしろに明りとりの窓が開いて居ります。足利あたりでは大概これを東に開けますから、何故かと聞きましたら、夏は東から這入りまするは冷風だと云います。って東へ窓を開け、之をざまと云います。夏季なつ蚊燻かいぶしを致します。此の蚊燻の事を、彼地あちらではくすべと申します。雨が降ったり暗かったりすると、誠に織り辛いと申しますが、何か唄をうたわなければ退屈致します処から、機織唄がございます。大きな声を出して見えもなくみんな唄って居ります様子は見て居りますると中々面白いもので、「機が織りたや織神さまと、何卒どうぞ日機ひばたの織れるよに」と云う唄が有ります。また小倉織おぐらおりと云う織方おりかたの唄は少し違って居ります。「可愛い男に新田山通にたやまがよい小倉峠が淋しかろ」、これは新田山と桐生きりゅうの間に小倉峠と云う処がございます。是は桐生の人に聞きましたが、はやしがございますが、少し字詰りに云わなければ云えません、「桐生で名高き入山書上いりやまかきあげの番頭さんの女房に成って見たいとうしの時参りをして見たけれども未だに添われぬ」トン/\パタ/\と遣るのですが、まことに妙な唄で。さて、足利の町から三十一町、行道山ぎょうどうざんかたへ参ります道に江川えがわ村と云う所が有ります。此処に奧木佐十郎おくのぎさじゅうろうと云って年齢とし六十に成る極く堅人かたじんがございます。もと戸田とだ様の御家来で三十石も頂戴したもので、明治の時勢に相成りましたから、何か商売をなければならんと云うと、機場のこと故、少しは慣れて居りますから、せがれ茂之助ものすけを相手に織娘おりこを抱えて機屋をいたしますと、明治の始めあたりは、追々機が盛って参り大分だいぶ繁昌で親父おとっさんうか早く茂之助にい女房を持たせたいと思ううち、織娘の中で心掛けの善いおくのと云うが有りまして、親父おやじ鑑識めがねでこれを茂之助に添わせると、いことにはたちまち子供が出産できました。総領を布卷吉つまきちと申して今年七歳になり、次は二月生れで女のをおさだと申します。