吹雪物語(ふぶきものがたり)


 一九三×年のことである。新潟も変つた。雪国の気候の暗さは、真夏の明るい空の下でも、道路や、建築や、行き交ふ人々の表情の中に、なにがなし疲れの翳を澱ませて、ひそんでゐる。さういふ特殊な気候の暗さや、疲れの翳が、もはや殆んど街の表情に見られないのだ。まづ第一に鋪装道路。表通りの商店街は、どの都市にもそつくり見かけるあたりまへの商店建築が立ちならび、壁面よりも硝子ガラスの多い軽快な洋風商店、ビルディング、ネオンサイン、酒場バー、同じことだ。築港の完成。満洲国との新航路開通といふこのまちの特殊な事情もあるけれども、変つたのは、あながちこのまちの話だけではないらしい。欧洲で言へば、世界大戦を境にして、と言ふところだが、日本では、恐らく関東大震災を境にして、と言ふのであらう。日本中の都会の顔が、例外なしに変つたらしい。
 青木卓一は久々に故郷へ戻りついた夜、叔父の田巻左門と大寺老人に案内されて、食事がてら街を歩いた。遠来の客をもてなすためといふよりは、老来益々出不精で、夜街の賑ひを忘れてゐる左門叔父の好奇心が強かつた。三人はダンスホールへもぐりこんだ。これも亦東京と同じことだ。廻転する光の色が踊りにつれて変化する。違つてゐるのは踊りての数が少いだけのことである。と、踊りに来合せてゐた幼馴染の一婦人が、卓一を認めて呼びかけた。その顔は卓一の記憶の底をつきまくり、ひつくりかへしても、雲をつきまはすと同じやうに、手掛りのないものだつた。え、俺の幼馴染といへば仔豚か鴉のやうな薄汚い餓鬼ばかりぢやないか。誰がいつたいこんなバタ臭い麗人に変つたのだらう? 卓一は呆れかへつて女の顔を視凝みつめつづけた。
「私の顔、思ひだせないでせう」女は笑つた。「あしたの今頃この場所でまた会ひませうね。お待ちしてますわ」
 女はくるりと振向いて行つてしまつた。
「私はかういふ艶つぽい場所が好きだ。芝居、ダンス、活動、待合。総じて人だまりと女のゐる場所はみんないいね。一晩に一場所づつ、粋な場所で遊んでくらして、それからゆつくり寝るのさ。ほかにたのしみもないのでね」
 と大寺老人は卓一にささやいた。さうして二十数貫の巨躯をゆすぶり、笑ひだした。左門も大寺老人ももはや七十を越えてゐた。左門は痩せ衰へてゐたが、珍奇な国の魅力のために、眼は生き生きと輝き、軽い上気がやつれた顔を若返らせてゐるやうだつた。
「え、誰だ。さつきの婦人は。あれも踊り子のひとりかね?」と左門がきいた。
「僕も見当がつかないのです。幼馴染だといふのですが……」
 卓一は久々に故郷へ帰つた思ひよりも、見知らぬ土地へ突きはなされた旅人のむせるやうな異国情趣をむしろ感じた。
「まるで変つたものでせうが……」と大寺老人が左門に言つた。
「まるで変つたね。然し、変るのがあたりまへだ」と左門は自分の老齢を蔑むやうな苦笑をうかべた。「卓一お前も踊つたらどうだ」
「生憎踊りを知らないのです。ダンスホールへ這入つたのが、生れてこのかたこれが始めての経験なんです」
「東京で何をして暮してきたのだ。お前もやつぱり穴熊の一族か」
 左門の眼は踊る人々を飽くこともなく追ひつづけた。少年の好奇心に燃えた眼だ。なんて新鮮な眼付だらう、と卓一は思つた。東京へ脱ぎすててきた耽溺の日々もただ退屈でしかなかつた。旅も、旅愁も、退屈つづきの重苦しさの底にあつた。故郷も、然し新鮮ではない。俺にはもはや少年がないのだ。
 ――この老人にこんな新鮮な少年の眼がどうして残つてゐたのだらう……
 それが再び彼に異国の思ひを強めた。
「大寺老」と左門はよんだ。「あなたは時々ここへ遊びにきて、踊つた例はないのかね?」
「さて、そこだね。長生きの恥かきとはここの理窟だ。いつぺんだけ踊つてみたことがありましたがね(と老人は急に当時を思ひだして、暫くは笑ひがだらしなく止まらなかつた)年寄りのくせに、豚のやうに太つてしまふと、赤んぼの足つきと同じやうにヨチヨチして、器用なうごきはできないものだ。女の子が怒つたね。あはは。私はかうして見てゐるだけで、なんと言つたね。卓一さん。その、ホルモンといつたかね。そのたしになりますからな」

 その翌日から卓一は越後新報へ出社した。卓一はこの新聞の編輯長に招かれたのだ。前編輯長の野々宮が事務を教えるために、出社してゐた。
「僕は始め人並みの抱負をもつてゐたのです。然し一年。恐らく一ヶ月といふ方が、むしろ正しいかも知れません。抱負は、すでに、なかつたのですね」野々宮は笑つた。卓一と同じ年齢のころ、彼も招かれてきたのであつた。「それからは、ニュースを編輯するだけの仕事でした。地方新聞は、青年の野望と抱負を傾けても、歯の立ちがたい種類のものです。抱負のうすれた毎日に、この土地の長い冬の暗らさほど、憂鬱なものはありません。毎日低い灰色の空に押しつけられてゐると、気違ひにならないことが、不思議な気すら起るのですね。この薄暗らい編輯室に一日坐つてゐるだけで、何か微塵に破壊したくなるやうな、苛立ちを覚えずにはゐられなくなつてくるのです」