空間概念の分析(くうかんがいねんのぶんせき)


 吾々の問題を正当に提出し得るためには、提出に先立って、次の準備が是非とも必要である。
 第一に、吾々は何を概念と呼ぶか。
 その説明を試みるために、理解という言葉から出発しよう。考え・思惟し、知り・判り・認識すること、即ち知識と知恵、並びに夫と直ちに一つではなくても夫に基く限りの一切のもの、一言で云うならば最も源泉的な意味でのロゴスの働きにぞくすもの、之を人々は最も広い意味に於て理解と呼んでいる。人々の言葉の内にあっても、この言葉は最も重大な役割を占め又最も必要な表現の一つであるから、従って又それだけ人々が之を語る意味は様々であるのが自然である。しかし今こう云った理由は、理解という言葉が学者達の術語として一致を欠いているからではない。吾々が或る言葉を説明する時、それがもし日常語であるならば、無論之を日常語として説明しなければならない。併し之に反してもしそれが専門語であるならば、吾々は第一にそれを或る一部の専門家が定義した名辞として、第二にその専門家のぞくす専門的世界の術語として、之を説明しなければならない。併し更に重大なことは、この術語が日常生活に於ける言葉――日常語――から、どのような手続きを経て派生して来たかを探ねることである(日常語と専門語との区別とその区別の権利は後を見よ)。尤もこの専門が realistisch な部門であるならば(例えば数学や物理学のように)、術語が発生する地盤としての日常語を探ねることは、必ずしも意味のある労作ではないかも知れない。誰もとかとかとかヴェクトルとかいう術語を日常語から出発して説明出来るとは思わないに違いない(但し数などは之と趣を異にしている)。之に反してもし humanistisch な部門であるならば、術語が日常語に於て有つ地盤を検討することは多くの場合非常に必要であるであろう。そして哲学――この多義な言葉を最も普遍的に用いるとして――に於ては、どのような場合にも、このことが絶対に必要である。もしそうしなければ、哲学は常識(その正確な意味は後を見よ)からの通路を有たないこととなり、入口なき象牙の塔の内に閉じ込められて了うこととなるであろう。数学・物理学などにとって通路を形造っているものは、計算や実験であるが、哲学にとっては之に相当する通路が失われて了うことになる。そこで理解という言葉が様々に語られると今し方云ったのは、この言葉が専門家達の術語として一定していないということを云おうと欲したのではない。そうではなくして正に、それが日常語として、――そして日常語の常として――一定していないことを指摘したかったのである。さて理解という日常語はこのようにして多義である。併し多義なロゴス――言葉――の内には、おのずからロゴス――関連――がなくてはならぬ。
 或る人は理解を何かしら受動的なものとして考える。何物かを例えば創造することは能動的であるが、能動的に創造されたこの物に就いて受動的に観照することが、理解である、とそのような人々は思い做す。この思い做しに基いて理解は表現――それは能動的である――から区別されるのが普通である。併し表現は記号から区別される、という意味は、表現は常に生命あるものの表現である外はない。処が生命を表現するには表現者が自己の生命を、即ち表現者自身を、何かの意味に於て既に理解しているのでなければならない。そうでなければ表現者は如何に自己を表現すべきかを決定する自由を持たないことになる、そしてこの自由を欠く時、表現は表現ではなくして模写に過ぎなくなって了う。表現するには表現者自身の理解がある筈である。この理解と表現されたものの理解(向の観照のような)とが同じであるとは、併し吾々は考えない。二つは同じ理解という言葉に値いする、それにも拘らず之を同じと考える理由はない。この関係は次のことを帰結する。表現されたものを理解することばかりが理解の名に値いするのではないということ(この場合理解は常に日常語として語られているのを忘れてはならない)。故に日常語としての理解は、必ずしも今云った意味に於て受動的なものには限られない。それには受動的ではなく従って能動的である場合も許されなければならない。理解に代り理解のこの能動性をも云い表わす言葉を吾々は把握に於て見出すのである。表現を理解すること――それは受動的であった――も、表現すること自身――それは能動的であった――も、把握である。表現されたものが把握されねばならぬと同時に、表現するためにはまず把握していることが必要である、表現すること自身が把握ですらあるのである。なる程受動的な理解であっても或る能動性(積極性)は有つ、この理解の力によって、単に深く見えたものが初めて透明にされるからである。又それと同じに、能動的な把握であっても或る受動性(消極性)は有つ、把握は無から有を把握し出すのではないから。併しそれにも拘らず所謂理解は受動的であり、把握としての理解は能動的であると考えられなければならない。けれども把握とは何か。