満蒙遊記(まんもうゆうき)

満蒙遊記の初めに


 日本人が先史時代から永久の未来に亘り、いろいろの意味で交渉の最も深い隣国の現状について、余りにも迂濶であるのは愧かしい事である。明治以来の応急の必要が、海外の知識と云へば、欧米の其れに偏せしめたのであつた。今はその偏見の革正せらるべき時である。日本人の視点はちかきに向つて照準されねばならない。
 これまでも日本人の一部は近代の隣国を間卻しては居なかつた。しかし其れは軍事眼で無ければ経済眼に限られて居た。若くは専門的な外交眼から観察するだけであつた。日清日露の両役より最近の済南事件に至るまで、多大の血税と軍費とを犠牲にしながら、それが何の理由に本づいて為され、併せてそれが如何なる効果を生じたかに就いては、国民の大多数は関知しないのである。
 偏頗な観察と思想とに由つて行れた事には、幾多の錯誤を免れ難い。殊に民族と民族との関係に於ては、それが容易に抜き難い相互の憎悪をさへ結果する。口さきの日支親善が、気分としての且つ事実としての日貨排斥に対して全く無力であるのを如何ともしがたい。
 個人と個人、民族対民族の心からの親善融和は、唯物主義と強権主義の外の問題である。それは相互の抽象的論議に由ることでもない。何よりも愛と趣味に和らげられた気分感情の交響に由つて培養し実現せらるべき問題である。
 日本人は隣国の気分感情を読まねばならない。隣国の自然と社会生活、それから発して※(「酉+慍のつくり」、第3水準1-92-88)醸された隣国の気分感情を観察せず、味解せずして、支那及び満蒙と自国との交渉を円滑にすることは不可能である。
 南満洲鉄道株式会社が毎年学者、教育者、芸術家等を招いて、満蒙見学の機会を与へるのは、主として以上の省察と考慮からであらう。そのお蔭で、自分達夫婦も昭和三年の五月より六月に亘つて、四十余日の間、南北満洲と蒙古の一部とを旅行する幸ひを得た。此の「満蒙遊記」一巻は、その旅中の印象記と詩歌とを集めたものである。今この書を印行するに際し、我等は先づ満鉄の諸君と、各地に於て歓待して下さつた人人との深大なる恩情に対して、心からの永久的な感謝を棒げる。
 此書の散文は大部分を妻が書いた。日日の行程に従つて、自分達の後の思出のために書き留めた手控に過ぎない。あわただしい旅行者の表面観察が、満蒙の事情に通ぜられる人達から見て、定めて一知半解の程度にまでも至らない粗雑な印象に終始し、失笑すべき誤謬さへも少なからぬことであらう。それを想うて深く愧ぢ入る次第であるが、今はおもむろに識者の是正を乞ふ暇を持たないため、遺憾ながら手控のままを印刷に附した。
 短歌は自分と妻と合せて一千首に近い作物から、互に自撰した。是れも絶えず行程を急ぎ、一所の感興に浸る時が乏しかつた為めに、実感の一部しか歌ひ得ない結果となつた。
 自分の漢詩は短歌よりも更に蕪雑なものばかりである。感興は絶えず生じたが、詩に纒める余裕がなかつた。是れは恩師吉田増藏先生の一閲を乞ひ、その大政を辱くすることが出来た。
 此書の装幀は、友人正宗得三郎君の筆を煩はした。君もまた我等より早く前年の秋に、有嶋生馬君と共に満蒙及び北京に一遊せられたのである。
 写真の中には、満鉄写真班の撮影が最も多く、また亜細亜大観社の撮影が二三葉まじつてゐる。茲に複写を許された両社の御厚意を感謝して置く。
 昭和五年五月、東京の郊外荻窪の遥青書屋に於て筆を擱くに当り、正にその季節である満洲の柳絮を思慕するの情に堪へない。
與謝野 寛
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「千山の無量観(道教の廟)の外景」のキャプション付きの写真
千山の無量観(道教の廟)の外景

「千山の無量観の一部内景」のキャプション付きの写真
千山の無量観の一部内景

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 自分は妻を携へて満蒙と北京とへ旅行することになつた。二人とも久しく教壇と書斎との間を往復する生活に固定してゐたので、俄かに籠を放れて羽を伸ばすやうな気持である。
 一九一一年に欧洲行の途次に上海を一瞥した以外に自分は支那の地を知らない。妻は浦塩斯徳から汽車でハルビン、満洲里を過ぎて欧洲へ行つた事はあるが、彼女も支那とは殆ど初対面である。
 我我は先づ何よりも公務や商用で旅行する境遇でないことの気安さを喜んだ。満鉄本社は我我を招いて、満蒙の晩春初夏を観て歩かせ、気に入つた所で歌を詠めと云ふのである。こんなに愉快な旅行は生涯に幾回もあらうとは想はれない。我我は本社の諸友の厚意を満喫しよう。
 出発前に古澤幸吉君はハルビンから、宇佐美寛爾君は大連から、共に旅行についての注意を与へられ、東京の小村欣一、上田恭輔、三樹退三の諸君は紹介状を恵まれ、正宗得三郎、古川達四郎、川西泰一郎、嘉治隆一の諸君は種種の配慮を賜はるのであつた。それから慶応大学の文学部長川合貞一博士は自分の請暇を快諾せられた。
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 昭和三年五月五日の夜、家族だけに送られて、そつと出発する積りで東京駅へ来て見ると、意外にも多勢の友人や学生達が見送られた。友人達の中に野口米次郎、正宗得三郎、新居格、赤城泰舒、河崎夏子、有島信子諸君の顔を見た。