念珠集(ねんじゅしゅう)

    1 八十吉

 僕は維也納ウインナの教室を引上げ、きふを負うて二たび目差すバヴアリアの首府民顕ミユンヘンに行つた。そこで何や彼や未だ苦労の多かつたときに、故郷の山形県金瓶村かなかめむらで僕の父が歿ぼつした。真夏の暑い日ざかりにはたけの雑草を取つてゐて、それから発熱ほつねつしてつひに歿した。それは大正十二年七月すゑで、日本の関東におほ地震のおこる約一ヶ月ばかり前のことである。
 僕は父の歿したことを知つてひどく寂しくおもつた。そして昼のうちも床のうへに仰向に寝たりすると、僕の少年のころの父の想出おもひでが一種の哀調を帯びて幾つも意識のうへに浮上つてくるのを常とした。或る時はそれを書きとどめておきたいなどと思つたこともあつて、ここに記入する『八十吉やそきち』の話も父に関するその想出の一つである。かういふ想出は、例へば念珠ねんじゆたまの一つ一つのやうにはならぬものであらうか。
 八十吉は父の『お師匠様』の孫で、僕よりも一つ年上のわらべであつたが、八十吉が僕のところに遊びに来ると父はひどく八十吉を大切にしたものである。読書よみかきがよく出来て、遊びでは根木ねつきく打つた。その八十吉は明治廿五年旧暦六月二十六日のひるすぎに、村の西方をながれてゐる川の深淵しんえん溺死できしした。
 そのときのことを僕はいまだに想浮おもひうかべることが出来る。その日は村人のふ『酢川落すかおち』の日で、水嵩みづかさが大分ふえてゐた。川上の方から瀬をなしてながれて来る水が一たび岩石と粘土からなる地層につき当つてそこに一つのふちをなしてゐたのを『葦谷地よしやぢ』と村人がとなへて、それは幾代いくだいも幾代も前からの呼名になつてゐた。目をつぶつておもふと、日本の東北の山村であつても、徳川の世を超え、豊臣、織田、足利から遠く鎌倉の世までもさかのぼることが出来るであらう。『葦谷地』といふから、そのあたり一面に蘆荻ろてきの類がしげつてゐて、そこをいろいろの獣類がほしいままに子を連れたりなんかして歩いてゐる有様をも想像することが出来た。明治廿五年ごろには山川の鋭い水の為めにその葦原が侵蝕しんしよくされて、もとの面影がなくなつてゐたのであらうが、それでもその片隅の方には高い葦が未だに繁つてゐて、そこに葦切よしきりがかしましくいてゐるこゑが今僕の心によみがへつて来ることも出来た。その広々とした淵はいつもくろずんだ青い水をたたへて幾何いくばく深いか分からぬやうな面持おももちをして居つた。
 ひとみを定めてよく見るとその奥の方にはゆつくりまはる渦があつて、そのうへを不断の白い水泡みなわが流れてゐる。その渦の奥の奥が竜宮まで届いて居るといつて童どもの話し合ふのは、彼等の親たちからさう聞かされてゐるためであつて、それであるからたとひ大人であつてもそこから余程川下かはしもの橋を渡るときに、信心ふかい者はいつもこの淵に向つててのひらを合せたものである。その淵も瀬に移るところは浅くなつてその底は透きとほるやうな砂であるから、水遊みづあそびする童幼どうえうは白い小石などを投げ入れて水中で目を明いてそれの拾競ひろひくらをしたりするのであつた。
 旧暦の六月廿六日は『酢川落すかおち』の日であつたけれども、もう午過ぎであるから多くの人は散じてしまつて、あたかも祭礼のあとの様な静かさが川の一帯を領して居た。弱くて小さい魚は死骸しがいとなつて川の底に沈み、なかには浮いて流れてゐるのもある。割合に身が大きく命を取留めた魚は川下に下れる限り下つたのもあり、あるものは真水のづるところにかたまつてあへいでゐるのもある。さういふ午過ぎに十四ぐらゐをかしらに十又は九つ八つぐらゐまでの童が淵の隅の割合浅いところに水遊をしてゐた。水遊と云つてもふだんの日の水遊とは違つて、一方には底に潜つて行つて死んだ小魚を拾ふのもその楽みの一つなのである。くば弱つて喘いでゐる大きな魚をつかまへることが出来たりするので、童らは何時いつまでも陸に上らうとはしない。
 泳げるものは最も気味の悪い深いところまで泳いで行つて、渦のところを二まはり三まはりぐらゐ廻つて来るのが自慢の一番とつてよかつた。すると淵の向う岸に八十吉がたつたひとり浅瀬のところで何かしてゐるのが見えた。向う岸と云ふと童らの居るところからは平らな光つてゐる水面を中に置いて可なりのへだたりがある。八十吉は唯一人で小魚でも見つけて居るのかも知れんと思つてから五分間位も経つた頃であらうか。岸から少し淵に入つた鏡のやうな水面に人の両方の手が五寸ぐらゐひよいと出たのが見えた。童らの驚く間もなく、人の両方の手が二たび水面から五寸ばかり出た。ほんの刹那せつなである。