有明集(ありあけしゅう)

この歌のひと卷を亡き父の
み靈の前にささぐ。







智慧ちゑ相者さうじやは我を見て今日けふかたらく、
眉目まみぞこはさがしく日曇ひなぐもる、
心弱くも人を戀ふおもひの空の
雲、疾風はやちおそはぬさきにのがれよと。

ああのがれよと、たをやげる君がほとりを、
緑牧みどりまき草野くさのの原のうねりより
なほ柔かき黒髮のわがねの波を、――
こを如何いかに君は聞ききたまふらむ。

眼をしとづれば打續くいさごのはてを
黄昏たそがれ頸垂うなだれてゆくもののかげ、
飢ゑてさまよふけものかととがめたまはめ、

その影ぞ君を遁れてゆける身の
乾ける旅に一色ひといろの物憂き姿、――
よしさらば、にほひ渦輪うづわあやの嵐に。


薄曇りたる空の日や、日もやはらぎぬ、
木犀もくせいの若葉の蔭のかけ椅子いす
もたれてあれば物なべておぼめきわたれ、
夢のうちの歌の調しらべびらかに。

ひとりかここに我はしも、ひとりか胸の
浪をふ――常世とこよの島の島が根に
つばさやすめむ海の鳥、遠き潮路の
浪枕なみまくらうつらうつらの我ならむ。

なかばひらけるわが心、半閉ぢたる
眼を誘ひ、げに初夏はつなつ芍藥しやくやくの、
薔薇さうびの、罌粟けしうまし花舞ひてぞ過ぐる、

えんだちてしなゆる色の連彈つれびき
たゆらに浮ぶ幻よ――蒸して匂へる
ずゐの星、こは戀の花、吉祥きちじやうの君。


時ぞともなくくらうなるいのち※(「戸の旧字+炯のつくり」、第3水準1-84-68)とぼそ、――
こはいかに、四方あたりのさまもけすさまじ、
こはまた如何いかに我胸の罪の泉を
何ものかうなじさしのべひた吸ひぬ。

しと匂へる花瓣はなびらあだしぼみて、
しきえてちたりおのづから
わが掌底たなぞこに、生温なまぬるきそのをかげば
唇のいやふまじき渇きかな。

聞け、物の音、――飛びがふいなご羽音はおとか、
むらむらと大沼おほぬの底をきのぼる
毒の水泡みなわの水のはじく響か、

あるはまたえやみのさやぎ、野の犬の
たはれの宮に叫ぶにか、噫、仰ぎ見よ、
かすかなる心の星や、たまの日のしよく


よどみ流れぬわが胸にうれひ惱みの
浮藻うきもこそひろごりわたれくろずみて、
いつもいぶせき黄昏たそがれの影をやどせる
池水いけみづに映るは暗き古宮ふるみやか。

石のきざはしくづれ落ち、水際みぎはに寂びぬ、
沈みたる快樂けらくを誰かまためむ、
かつてたどりし佳人よきひとの歌を
その石になほ慕ひ寄る水の夢。

花の思ひをさながらのいのりの言葉、
ぬかづきしおもわのかげのえがてに
この世ならざるえにしこそ不思議のちから、

追憶おもひでの遠き昔のみ空より
池のこころに懷かしき名殘なごりの光、
月しろぞ今もをりをり浮びただよふ。


文目あやめもわかぬよるむろに濃き愁ひもて
みにたる酒にしあれば、唇に
そのささやきを日もすがらあぢはひ知りぬ、
わが君よ、絶間もあらぬ誄辭しぬびごと

何の痛みか柔かきこのゑひにしも
まさらむや、嘆き思ふは何なると
占問うらどひますな、夢の夢、君がみその
ありもせば、こは蜉蝣かげろふのかげのかげ。

見おこせたまへさかづきを、げにうるはしき
おんこそつばさうるめる乙鳥つばくらめ
透影すいかげにして浮びひ映りとほりぬ、

いみじさよ、濁れる酒も今はとて
輝きづれ、うらうへに、たまりする
まじの露。――いざ諸共にしてあらなむ。


むせび嘆かふわが胸の曇り物憂き
しやとばりしなめきかかげ、かがやかに、
或日はうつる君がおもこびの野にさく
阿芙蓉あふようなまめけるその匂ひ。

たまをもらす私語ささめきに誘はれつつも、
われはまた君をいだきて泣くなめり、
極祕の愁、夢のわな、――君がかひなに、
痛ましきわがただむきはとらはれぬ。