木枯の酒倉から(こがらしのさかぐらから)


 木枯の荒れ狂ふ一日、僕は今度武蔵野に居を卜さうと、ただ一人村から村を歩いてゐたのです。物覚えの悪い僕は物の二時間とたたぬうちに其の朝発足した、とある停車場への戻り道を混がらがせてしまつたのですが、根が無神経な男ですから、ままよ、いい処が見つかつたらその瞬間から其処へ住んぢまへばいいんだ、住むのは身体だけで事足りる筈なんだからとさう決心をつけて、それからはもう滅茶苦茶に歩き出したんです。ところが案外なもので(えてして僕のやることは失敗におわるものですから)、見はるかす武蔵野が真紅に焼ける夕暮れといふ時分に途方もなく気に入つた一つの村落を見つけ出したのです。夢ではないかと悦んで思はず快心の笑みを洩して居りますと村端れの一軒に突然物の破ける音がして、やがて荒れ狂ふ木枯にふうわりと雨戸が一枚倒れるのを見ましたが、次の瞬間には真つ黒な塊が弾丸のやうに転げ出て、僕の方へまつしぐらに駈け寄つてくるのです。近づくのをよくよく見ますと、いやに僕によく似た――背が高く、毛髪は茫茫とし、顔色は蒼白で、駈けてきた所為でもありませうが、何となく疲労の色が額に漂つてゐて、妙チキリンなピヂャマを着てゐるんです。一体こいつほんとに気狂ひかしら、と無論僕はさう思ひついたのですが、広い武蔵野の真ん中で紅紅とただ二人照し出されてみますと、この怪物がばかに親密に見えるものですから、君、君、と僕は通りすぎるこの怪物を呼びとめました。ところがこの周章あわて者は僕の声などてんで耳に這入らないらしく尚も一散に弾となり水平線の向ふ側へ飛び去りさうに見えたものですから、僕も亦とつさにわあつといふと一本の線になつてこの男の跡を追ひかけるやうな次第になつたのですが――大根の四五本ぬき棄てられてある横つちよのあたりでやつとこの周章て者の腰のところへ武者振りつくと勢あまつて二人諸共深深と黒い土肌へめり込んでしまつたのです。顔の半ぺたを土にしてフウフウと息をつきながら夢からさめたもののやうにポカンとしてゐるこの周章て者に僕は亦とぎれとぎれに詫を述べ、如何なる必然と偶然の力がかかる結果を招致するに至つたものであるかといふことを順を追ふて説明いたしました。
 ――結局君はこの村に貸間亦は貸家が存在するであらうかといふことを僕にききたかつたんだね。
 と、話してみれば物分りのいい男で、心臓の動悸がやうやくに止つたらしく、こう(顔の半ぺたを土にして)反問するのです。
 ――さうです、何か御心当りがありますかしら。
 と、僕はもうひどくこの周章て者に好意を感じ出してゐたのですが、物のはづみで拾ひあげた大根をなで廻しながらこんな風にきいたのです。するとこの男は僕の言ふことが呑み込めないのでせうか(えて哲人は食物を食べるその理窟さへ分らないものだと言ひますから)怪訝な顔をして、
 ――無いこともないが、かりにあつたとして、君はそれをどうする心算つもりなんだ。
 といふのです。
 ――無論僕が住むんですがね。
 ――う、ぶるぶる、止した方がよろしいよ。
 ――何故ですか?
 ――う、ぶるぶるぢやよ。
 と彼は一きは顔色を蒼く鋭くするのです。しかし彼は見かけによらぬ親切な男で、改めて僕を自分の宿(さつき雨戸を蹴倒して出てきたところです)へ案内すると、どうしても君はこの寒い村に居を構えるつもりであるかと尋ね、頑としてさうであると答へると、「尊公も亦呪はれたる灰色ぢやよ」と目を伏せながら、次のやうな笑ふべき物語を語つてきかせたのです。木枯が窓を叩くたびに、う、ぶるぶると震へながら――


 俺の行く道はいつも茨だ。茨だけれど愉快なんだ。茨よりほかの物を、俺には想像ができなかつたから。

 俺は禁酒を声明した。肉体的、経済的、ならびに味覚的に於てすら、酒そのものが俺にはけして愉快なる存在ではなかつたからだ。無論禁酒を声明した程だから昔は酒を呑んだんだ。あべべい、酒は茨だねえ、不快極る存在ぢやよ、と言ひながら。
 酒は君、偉大なる人間の理性を痺らせるものぢやよ。酒はあぱぱいぢや。汝の明朗なる人間的活動は忽ちにして神の如く曇るぞよ。おそれよ、おそれよ、といふ注告は遺憾ながら俺の為にはペチシオ・プリンシピイの誤謬を犯してゐる。
 俺の理性が頼れうるものならば――余は酒樽の冠を被り樫の大いなるさかずきを捧げ奉つて、ロンサルの如くたちどころに神に下落するぞよ。
 ――愛する友よ。君は人間として甚だいたらん男ぢや。酒呑めば酒と化すことを、人間はその誇りとするものぢやよ。まま、ええさ。唄ひかつ踊り、寂しげなる村々を巡礼して悩みを悦びの如く詩にあらはし、一文の喜捨にも往昔の騎士に似て丁重なる礼を返し、落日と共にねぐらを求めて山毛欅ぶなの杜へ消え去るのも一つの修業方法であるな。旅は人の心を空ッポにするものぢやよ。そのくせひどく感動しやすくなるもんだから、貴公のやうな鈍愚利どんぐりでも時あればむやうに酒が恋しくなるかも知れん。ああ! 酒呑まぬ男は猿にかも似てゐると、うまいことを言ふもんだねえ。サカシら人は、いやだねえ。ゲヂゲヂを思はせるよ、君。