ディカーニカ近郷夜話 後篇(ディカーニカきんごうやわ こうへん)

 これは、ガデャーチからよくやつて来たステパン・イワーノ※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ッチ・クーロチカに聞いた物語はなしぢやが、これには一つの故事来歴がついてゐる。ところで、元来このわしの記憶といふやつが、何ともはやお話にならぬ代物で、聞いたも聞かぬもとんとひとつでな。いはば、まるでふるひの中へ水をつぎこんだのと変りがないのぢや。我れながら、それを百も承知なので、わざわざ彼にその物語はなしを帳面へ書きつけておいて呉れるやうに頼んだ次第ぢや。――いや、どうか達者でゐて貰ひたいもので――あの先生わしには何時もじつに親切な男でな、筆をとるなり、さつそく書いておいて呉れたわい。わしはその帳面を小卓こづくゑの押匣へしまつておいたのぢや。そら、諸君も御存じぢやらう、あの、戸口を入つた直ぐとつつきの隅にある小卓こづくゑなんで……。いやはや、これはしたり、すつかり忘れてをつたが――諸君はまだ一度もわしの家へ来られたことがなかつたのぢやな。ところで、わしがもう三十年このかた連れ添ふうちの婆さんぢやが、恥をいへば目に一丁字もない女なんで。この婆さんがある時、何かの紙を下敷にして肉饅頭ピロシュキを焼いてござるのぢや。時に親愛なる読者諸君、うちの婆さんときたら、その肉饅頭ピロシュキを焼くのがめつぱふ上手なのぢや、あれくらゐ美味うま肉饅頭ピロシュキはどこへ行つても食へつこない。それはさて、何気なくその肉饅頭ピロシュキの下敷にしてある紙を見ると――なにか文字が書いてある。へんに思ひあたる節があるので、小卓こづくゑのところへ行つてしらべて見ると、どうぢやらう――くだんの帳面が半分くらゐの丁数になつてをるではないか! あとは残らず婆さんめ、肉饅頭ピロシュキを焼くたんびに、引きちぎつては使つてしまひをつたのぢや! だが、どうしやうがあらう、まさかこの老齢としで、掴みあひができるではなしさ! 去年のことぢやが、たまたまガデャーチをとほつたので、まだそのまちへさしかかる前に、この一件についてステパン・イワーノ※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ッチをたづねることを忘れまいとて、わざわざ忘れな結びをしておいたほどぢや。それだけならまだしも、まちなかでくしやみが出たら、それをしほに必らずあの仁のことを想ひ出さうと、しかと我れと我が胸に約束しておいたのぢやが、それもこれも無駄ぢやつた。市をとほりながら、くしやみもしたし、ハンカチで鼻汁はなもかんだけれど肝腎のことはすつかり忘れてしまつてゐたのぢや。で、やつと気がついた頃は、市の関門を六露里ウェルストばかりも距たつてゐた。どうもしかたがない。尻切蜻蛉のままで印刷にまはすことになつてしまつた。だが、この物語のさきがどうなるか、是非とも知りたいとお望みの方には、ひとつガデャーチへ出むいて、ステパン・イワーノ※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ッチに訊ねていただくまでのことぢや。あの仁は大悦びでこの物語を、恐らくは初めからしまひまで、お話しすることぢやらう。住ひは石造の教会堂のつい近所でな。あすこのとつつきに小さい横町があるが、その横町へ曲るとすぐ、二つめか三つめの門がそれぢや。あ、さうさう、それよりもよい目標めじるしは、庭に太い棒が立つてゐて、それに鶉がかけてあり、草いろの女袴スカートを穿いた、ふとつちよの女が出迎へる(ステパン・イワーノ※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ッチが独り者だといふことを御承知おき願ふのも妨げにはなるまい)と、それが彼の邸なのぢや。それとも市場で先生をつかまへることも出来る。奴さんはそこへ毎朝、九時までには必らず出かけて、自分の食膳を賑はす魚菜をみたてたり、アンティープ神父や、それから請負商の猶太人などと話し込んでゐるのが平素いつものならはしなんでな。それにあんな派手な花模様のズボンを穿いたり、鬱金うこんの南京繻子で出来たフロックコートを著てゐる人間は、あの男のほかには一人もゐないから、すぐに見分けがつく。もう一つの目標めじるしは、歩く時にきまつて両腕をぐるぐる振りまはす癖のあることぢや。今は亡き彼地あちらの陪審官デニス・ペトロー※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ッチは、遠くから彼の姿を見かけると、※(始め二重括弧、1-2-54)御覧なさい、御覧なさい、そら、あすこへ製粉場こなひきばの風車が歩いて来ますぜ!※(終わり二重括弧、1-2-55)と、きまつてさう言つたものぢや。
忘れな結び 用事を忘れず思ひ出すよすがに、ハンカチに結びこぶを作ること。


 イワン・フョードロ※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ッチ・シュポーニカは、もう四年まへから軍職を退いて、所有農園もちむらのウイトゥレベニキに住んでゐる。彼がまだワニューシャと呼ばれた少年時代には、ガデャーチの郡立小学校へかよつてゐたが、特筆すべきことは、彼がきはめて品行方正な、ぬきんでて勤勉な児童だつたことで、露西亜文法の教師ニキーフォル・ティモフェー※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ッチ・デェプリチャースティエは、いつも、受持児童が残らずシュポーニカのやうな勤勉家ばかりだつたら、自分は楓樹かへでの定規などを教室へ持つて来るには及ばぬのだがと、言ひ言ひしたものだ。いつも彼は、彼自身が告白したとほり、怠け者や悪戯つ児の手をその定規で打ち草臥くたびれてしまふ有様だつた。シュポーニカの筆記帳はいつもきれいで、いつぱいに罫がひいてあつて、どこを開いて見ても斑点しみ一つついてゐなかつた。彼はいつでもおとなしく席につくと、手を拱んで、じつと教師に目をそそぎ、決して、自分の前の席に坐つてゐる級友の背中へ紙片かみきれをぶら下げるとか、腰掛に彫刻をするとか、それから、先生が来るまで目白押しをやるといふやうなことがなかつた。もし誰かが鵞筆ペンを削るのにナイフの要るやうな場合には、イワン・フョードロ※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ッチが何時もナイフを用意してゐることがわかつてゐたので、取敢へず彼に借用を申し込んだものだ。するとイワン・フョードロ※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ッチは――いやそのころは単にワニューシャだつたが、――鼠色の制服の釦孔ぼたんあなにさげてゐた小さい革袋ケースからナイフを取り出して、但しペンを削るのにナイフの刄尖はさきをつかはないで欲しい、それにはちやんと、適当な刄の鈍い個所があるからと、断るのだつた。かうした美点は、あの粗羅紗の外套と痘瘡あばただらけの顔を入口へにゆつと現はす前に昇降口でやる咳払ひ一つで、全教室を恐怖のどん底におとし入れる、拉典語の教師の注意をすら、忽ち彼の上へ牽きつけずにはおかなかつた。いつも教壇に二振りの枝笞を用意して、生徒の半数に膝立ひざだちの罰を喰はせる、この怖ろしい教師が、クラスのうちには遥かに良く出来る連中が沢山あつたにも拘らず、イワン・フョードロ※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ッチを指導委員アウディートルに任命した。さて、茲に彼の全生涯に影響を及ぼすに至つた一大事件の出来したことを見逃しにする訳にはゆかぬ。彼の指導に委ねられた生徒の一人が、或る学課がまるで出来なかつた時に、指導委員アウディートルを買収して採点簿に甲を入れさせようと思つて、バタを塗つた揚煎餅ブリーンを紙にくるんで教室へ持つて来たのだ。イワン・フョードロ※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ッチは公明な心の持主だつたが、をり悪しくその時はひどく空腹だつたため、この誘惑に打ち克つことが出来なかつた。彼は揚煎餅ブリーンを受け取ると、本を前に立てかけておいてムシャムシャやり出したが、ひどくそれに夢中になつてゐたものだから、不意に教室の中がまるで死んだやうにしいんと鎮まり返つたことにも気がつかなかつた。彼がハッと我れに返つた時には、すでに粗羅紗の外套の袖口からぬつと出た怖ろしい手が彼の耳を掴んで、教室の真中へ引きずり出してゐた。『揚煎餅ブリーンをこちらへお出し! お出しと言つたら、この碌でなしめ!』さう言ふなり、怖ろしい教師はバタつきの揚煎餅ブリーンを指で摘んで、窓から外へ投げ棄てた。そして運動場を駈け※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐる児童たちに向つて、それを拾つちやならんぞと厳しく禁じておいてから、すぐにその場でイワン・フョードロ※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ッチの両手をいやといふほど鞭打つた。――いかさま揚煎餅ブリーンを受け取つたのはその手で、からだの他の部分には罪がないとでもいふのだらう。それは兎も角、このことがあつて以来、それでなくても生まれつき小胆な彼に、なほさら臆病風が染みこんでしまつたのだ。恐らくこの事件そのものが因を成して、後年、彼をして絶対に役所勤めに入らうといふ望みを起させなかつたものに違ひない――この経験から、誤魔化といふことの難かしさをつくづく悟つたがために。