わが寄席青春録(わがよせせいしゅんろく)

    第一話 寄席ファン時代

 毎々言うが、私の青春は暗黒だった。で、その頃寄席へ行って名人上手の至芸に接するたび、つくづくアベックで聴きに来ている人々がうらやましかった。ことに相手が美しい人たちだといっそうだった。俗にかみはくと仲間から呼ばれていた神楽坂演舞場へよく来ていた美男美女のカップルなど、二十余年を経た今日といえども、まざまざとそのあえかな面輪を羨ましく思い泛べることができる。かくして私はいつも自分一人か野郎同士で、品川の圓蔵を聴いた、圓石を聴いた、三代目小さんを聴いた、盲の小せんや先代文楽や先代志ん生や先々代市馬を聴いた、ただし、三代目小さんだけは、大震災直後、大阪南地の紅梅亭でたったいっぺんだけ久恋の人と聴いた。小さんは「堀の内」をその時演じ、その前にこれも震禍を避けて来阪中の伯山が関東震災記を例の濶達な調子で読んだ。
 伯山のこの震災記がニットーレコードに間もなく二枚続きで吹き込まれたが、今日あったら珍品だろう。女は当時宝塚の人気スターで私より二つ上の二十二、私は二十で作家に成り立て、「文芸春秋」へ寄せた新作黄表紙が芥川さんに激賞されおよそ得意の絶頂時代だった。
 余談ではあるが、今日、とにかく私を五十歳、六十歳の老人だと思っている向きが多いのは、好んで取材する世界が明治東京であることと、二十の年に家が潰れて以来二十余年の作家生活をしだしたのであるということとをまったく計算に入れていないからである。女は、その時私の帽子(たしかいまだ新秋で麦藁帽子)を自分の膝の上に置いてくれたことが、どんなにどんなに嬉しかったろう。こう書くと情緒纏綿てんめんのようであるが、遊びのひとつもしているくせに愛人の前ではいつも固くなりすぎて機会があったのにプラトニックに終始、そのためかえって別れてしまうようなこととなったくらいだから、この時も彼女のお母さんと三人連れで、じつはあまり大したことではない。でもあまりにもスターでありすぎた彼女は、男連れで人中へ出たので、いつもおずおずしとおしていた。しかもこの晩限りで私たちは当事者から一時仲を割かれ、病弱だった彼女は、療養生活にやるというのを表面の理由として伊予の一村落へ向けて出発させられてしまった。取り残されたこの私の、いうようなき失望よ、落胆よ、また悲嘆よ。
 女はその年の暮れには健康恢復かいふくして再び宝塚へ帰ってきたが、二年のち、やっぱり別れた。その理由はかつて「下町育ち」という小説の中で書いたからここではいわない。ただそのおしまいまでプラトニックであったため、かえってつい十年ちかくまで不忘の幻になって目先に蘇り、私の半生を苦しめぬいて困った。後年、柳家三亀松が宝塚のスターを女房にしたと聞き、かりそめにも「新婚箱根の一夜」居士などに惚れる宝塚少女があるのに、この自分が掌中の白珠をむざむざ喪失するなどは何ごとぞと、文字どおり私は全身の血の冷え返るのを覚えたくらいだった。話が前後するが、私の宝塚の彼女は、その三代目小さんを聴いた翌年九月、休暇を取ってはるばる上京してきた。私はその頃好きでもあり別懇でもあった先々代林家正蔵に頼んで、もし私が情人と君を聴きに行ったらぜひぜひその晩は十八番の「居残り佐平次」を演ってくれと言ったものだったが、その晩は彼女の主張で築地小劇場へ、ゲオルグカイゼルの作だったろうか、当時流行していた表現派戯曲「瓦斯」の方を見物に行ったので、ついに正蔵を聴くの一夜を共有することはできなかった。小劇場の帰り月淡き震災後二年の築地河岸で、私たちは幾度か熱いくちづけを交わした……。
 さて、そのごとく寄席ファン時代はアベックで名人たちを聴くことに憧れつづけ、次いで自分が高座へ上がるようになってからは何とか高座の人を情人として、なるべく彼女の上がった直後の高座へ上がりノメノメとしたことを言いたいなどと「湯屋番」の若旦那さながらの愚かな夢想を抱きそめた。同時に、鳴り物入りの落語を多く演じていた私は、その人に専門の下座(ツレ下座と仲間のテクニックでは言う)を兼業してもらいたいと念願していたこともまた事実だった。
 よく青春期に耽読した文学は、その人の終生の人生観芸術観を支配するというけれども、私のこの二つの観念は、鬢髪しばらくに白きを加えた四十余歳の今日といえどもまったく変わらない。けだし、若き日において二つが二つとも叶えられなかったその心の打ち身の名残りであろう。今や顧みて不憫な奴めと思わざるを得ない。
 しかし私は前にも言ったごとくたった一人、もしくは野郎同士ばかりで、毎晩毎晩寄席通いをした。今の桂文楽君は、当時の私の姿を高座の上から覚えていてくれて唯一の旧知である。私は灯が点くとさびしくなり、さびしくなるから寄席へ行った。蕩児のように。が、寄席へ行って太神楽や手品の、米洗いとか竹スとかきぬたとかしころ[#ルビの「しころ」は底本では「しろこ」]とかの寄席囃子を聴き、当時はいまだいまだ正統派な軽妙江戸前のが多々といた万橘三好、かん、勝次郎、枝太郎、歌六などの音曲師のうたう市井の俗歌を耳にすると、いっそうホロホロとさびしくなった。ましてそこの寄席に、美貌なるアベックの寄席ファンでも見出すならば、なおさらである。