鳴雪自叙伝(めいせつじじょでん)


一 この自叙伝は、最初沼波瓊音ぬなみけいおん氏の「俳味」に連載されしが、同誌の廃止後、織田枯山楼氏の「俳諧文学」にその「俳味」に載りしものと共に終結までを連載された所のもので、今般それを一冊子として岡村書店より発行せらるることとなったのである。
二 誌の毎号の発行に当り、余は記憶に捜って話しつつ筆記してもらい、それをいささか修正したるものに過ぎぬから、遺漏も多く記憶違いも少なかるまい。しかし大概は余が七十六歳までの経歴の要項を叙し得たと信ずる。
三 文中に現今七十四歳とあるは、談話もしくは修正の当時における年齢である。
四 意義に害なき誤字は発行を急ぎし故そのままにしたるものも少なくない。
五 附録の句集は松浦為王氏の選択に任かせたものである。

大正十一年三月
鳴雪識るす
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自叙伝

内藤鳴雪


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 私の生れたのは弘化四年四月十五日であった。代々伊予松山藩の士で、父を内藤房之進同人ともざねといった。同人とは妙な名であるが、これは易の卦から取ったのである。母は八十やそといった。私は長男で助之進といった。その頃父は家族を携えて江戸の藩邸に住んでいたので、私はこの江戸で産声をあげたのであった。幕府の頃は二百六十大名は皆参勤交代といって、一年は江戸に住み次の一年は藩地に住んだ。そして大名の家族は江戸に住んでいた。それに準じて家来も沢山江戸藩邸に居た。その中で単身国許から一年交代で勤めに出るのもあり、また家族を引連れて、一年交代でなく或る時期まで江戸藩邸に住むのもあった。前者を勤番きんばんといい、後者を常府じょうふといった。私の父は弘化三年の冬にこの常府を命ぜられ、松山から引越して江戸へ出た、その翌年に私が生れたのであるから、私は松山でたねを下ろされ、腹の中にかがまりながら海陸二百五十里を来て江戸でこの世に出たのである。
 大名の屋敷はその頃上屋敷中屋敷下屋敷と三ヶ所に分って構えたもので、私の君侯の上屋敷は芝愛宕下あたごしたにあり、中屋敷は三田一丁目にあり、下屋敷は深川や目黒や田町などにあった。この中屋敷で私は生れたのである。ちょうど今の慶応義塾の北隣の高台で、今はいろいろに分割されているが、あの総てが中屋敷であった。慶応義塾の下に春日神社が今でもあるが、あれが、私の産土神うぶすながみで、あの社へお宮参りもしたのであった。
 私の幼時の記憶の最も古いのは、何でも二つか三つ頃にどぶへ落っこちた事である。私どもの住んでいた小屋は藩から立てられたもので、勤番小屋、常府小屋に区別され各役相応の等差があった。私の父は側役そばやくといって、君侯のそばで用を弁じる者即ち小姓の監督をし、なお多少君侯に心添えもするという役で、外勤めの者の頭分かしらぶんというのと同等に待遇されていた。故にその身分だけの小屋を貰っていたが、或る時、私の母の弟で、交野かたの金兵衛といって、同じく常府で居たものが、私を連れて外出しようとした。家の門の前にどぶがあって、石橋がかかっていた。交野の叔父は私の手を引いてそこを渡ろうとした。すると私は独りで渡るといい張った。叔父も若かったから、それならといって離した。私はヨチヨチ渡りかけたと思うと真逆様まっさかさまに溝へ落ちた。小便もし、あらゆる汚ない物を流す真黒まっくろな溝であった。私は助け上げ家に入れられて、着物を脱がせられるやら、湯をあびせられるやら大騒ぎであった。どうもその時の汚なさくささ苦しさは今でも記憶している。
 私の三つの時の七月に母は霍乱かくらんで死んだ。それ以来私は祖母の手に育てられた。私のうちには父母の外に祖母と曾祖母がいた。母がなくなってからはこの二人のばばが私を育ててくれたのであるが、就中なかんずく祖母は我が子のように可愛がってくれた。私も『おばアさん、おばアさん』といってなついていた。夜は床に入ってから寝着くまで祖母の乳を吸うていた。何も出ないのであるがこれを吸わねば寝着かれなかった。牛乳の無かった時代だから定めて私を育てるのに骨が折れたことであろう。
 私は悪い癖があった。それは寝ていて糞をたれることで、このために時々夜半に祖母達が大騒ぎをした。その糞騒ぎの真最中に泥棒が這入ったことがあった。これは私の四つか五つの時であった。この賊は私の祖父の所の下部しもべであった。私の父は菱田という家から養子に来たものでこの菱田の主人即ち私の祖父にあたる左近衛門というは、その頃奥の頭役かしらやくといって、他では奥家老といった役を勤めていた。ここには若党仲間ちゅうげんなどいくらもいた。その中の一人があに計らんや賊の親玉であって、常に私の家の様子をよく知っていたので、この夜半の騒ぎに乗じて這入ったのであった。彼は以前にも、私の父の同役の勤番の鈴木という内へ宵のうちに行って、そこの下部といろいろ話して、その夜主人が当直だということを知って、忍込み大小だいしょうや衣類を盗み、それを有馬藩邸に対した横町の裏門の石橋の下へ隠して置いた。この裏門のあった所は、綱坂つなさかという坂で、昔渡辺綱が居たという処である。間もなく彼は召捕られて屋敷内の牢屋へ繋がれたが、一夜食物の差入口から一つの柱をこわして『牢抜ろうぬけ』をした。よほど無理に抜けたと見えて、柱の釘に肉片が附いていた。そんな事にひるまず彼はその足で直ちに私のうちへ忍込んだのであった。盗み出したのは納戸にあった小箪笥こだんすで、その中から雑用金と銀金具物ぎんかなぐものなどを取り箪笥は屋敷内へ棄てて行った。