奥州における御館藤原氏(おうしゅうにおけるみたちふじわらし)


 余輩は前号において征夷大将軍の名義について管見を披瀝し、平安朝において久しく補任の中絶しておったこの軍職が、源頼朝によって始めて再興せられたものである事情を明かにし、その以前に木曾義仲がすでに征夷大将軍に任ぜられたとの古書の記事があり、それが古来一般に歴史家によって認められているとはいえ、その実義仲の任ぜられたのは頼朝討伐のための征東大将軍であって、征夷ではなく、また内容からも征夷大将軍というべきものではなかった次第を明かにしたのであった。
 かくてさらに頼朝が征夷大将軍に任ぜらるるに至った道筋に論及し、この補任はもともと彼の多年の希望であり、朝廷においても久しい間の懸案であったが、官僚の間にもその反対者があり、特に後白河法皇がそれを御許容にならなかったので、法皇崩御後の初度の朝政において、始めてその目的を達することが出来た事情を詳述したのであった。頼朝がこれを希望したのは、奥州における俘囚の長たる御館藤原氏が、院宣を奉じて頼朝の背後を窺うのに対して、これを討伐すべき適当なる名分を得んがためで、今一つには京都なる中央政府以外において、別に鎌倉に一新政府を組織するについては、これを将軍出征中の軍政府、すなわち幕府に擬することが、最も都合がよかったという事情もあったのであろう。しかも朝廷においてこれが任命に躊躇し給うたことは、一には藤原秀衡をして常に頼朝の背後を窺わしめ、その勢力を牽制せしめ給わんとしたとの理由もあるべく、一には院宮・権門らがかの豊富なる奥州の貢金に未練を残したという事情もあったのであろう。今本章は奥州におけるこの御館藤原氏の地位を論じ、次に当時の奥羽における民族のことにまで及んで、もって前号末尾における発表の予約を果たし、頼朝の補せられたる征夷大将軍の意義に関する所論を完うせしめようと思う。


 藤原秀衡は清衡の孫で、祖父以来今の陸中の主要部分たる胆沢・和賀・江刺・稗貫・紫波・岩手の六郡を領し、さらに南に出でて磐井郡の平泉に根拠を構え、砂金その他の豊富なる国産によって豪奢を極め、直接音信を京師に通じて院宮・権門・勢家に贈賄し、その威はよく国司を圧迫して、国司もこれをいかんともすることが出来ず、隠然一敵国の観をなしたのであった。されば心あるの士はこれを憤慨し、彼らは王地を押領するものとして、これを近づけるを欲しなかった。その史料は断片ながら多少は存している。『古事談』に、
 俊明卿(宇治大納言隆国三男、大納言民部卿皇大皇后宮大夫源俊明、永久二年薨)造仏之時、箔料ニトテ清衡令砂金云々。彼卿不之、即返遣之云々。人問子細。答云、清衡令領王地。只今可謀反者、其時ハ可追討使之由可定申也。仍不云々
とある。これは俊明が特に剛直であったがために、このような逸話も存するのであるが、多くの場合にあっては彼らの富が、よくあらゆるものを麻痺せしめおわったのであったに相違ない。清衡がいかに富強を極めたりしかは、今も存する中尊寺の金色堂を見ただけでも容易に推知し得べきところである。彼はまた中尊寺以外にも多く造寺・造塔の功徳を積み、在世三十余年の間、わが延暦・園城・東大・興福等の諸大寺を始めとして、遠くシナの天台山にまで、多くの砂金を送ってしばしば千僧の供養をなしたほどであった。その園城寺に施した分は一時に砂金千両とあるから、もって他をも察することが出来よう。しかも彼が王地を押領するの事実はとうていこれを否むことが出来ず、俊明のごとき心あるの士は、いつかは追討の師を出だす機会のあるべきことを予想していたのであった。
 清衡の子基衡は、父の富と勢いとをそのままに継承して、相変らず奥羽に割拠していたのであった。彼は父の中尊寺に倣ってその近傍に毛越寺を建立した。不幸にしてこの寺はほとんど当時の何物をも後世に遺していないが、『吾妻鏡』の記するところによると、中尊寺よりもその規模遙かに宏大なりしがごとくに思われる。中尊寺は寺塔四十余宇、禅坊三百余宇とあるが、毛越寺には堂塔は同じく四十余宇で、禅坊は五百余宇の多きに達していたのである。されば『吾妻鏡』(文治五年九月二十二日条)にも、基衡は果福父に軼ぎ、奥羽両国を管領すとある。彼は九条関白家に自筆の額を請い、また参議藤原教長に請うて、堂中の色紙形を書いて貰ったとある。彼がやはり父の方針をついで、黄金の力をもっていかに公家の※(「てへん+晉」、第3水準1-84-87)紳に近づいていたかが察せられよう。しかも彼また法性寺関白忠通の額だけはついに貰い損った。『古事談』に、
 法性寺殿令所々額給之間、自御室額ヲ一依申請、被書献了。而陸奥基衡ガ堂ノ額ナリケリト令聞給テ、イカデサル事有トテ、御厩舎人菊方ヲ御使ニテ、被召返ケリ。基衡雖秘計、不承引。遂ニ責取テ三ニ破テ帰参云々