「ケット」と「マット」(「ケット」と「マット」)


 僻陬へきすうの地に先住民族がながく取り遺されるという事は、今さら事新しく言うまでもないところで、現に台湾東部の山地には、近くその実際を見るのである。これを我が古史に徴するに、西南薩隅の地に夷人と呼ばれた隼人が奈良朝頃までもなお残存し、東北奥羽の地方には平安朝に至ってなお蝦夷が猖獗を極めたところのもの、いずれもかつては広く分布していたこれらの先住民族が、中央に近いところから漸次同化融合して日本民族の伍班に加わり、所謂皇化の及ばざる僻陬の地において、未だその機を捉ええざる同族がなお旧態を保存していたに過ぎないものであった。そしてその隼人の方は遠からず同化の実を挙げて、延暦の頃にはすでにその本国たる薩隅両国にも他と同様の田制を実施しうるに至り、いつしか異民族としての存在を失ってしまったが、蝦夷の方はなお後までも久しく残存して、鎌倉時代の初めにおいても、奥羽両国はえびすの国なりとの理由の下に、田制上の特別の除外例が認められた程であった。かくて江戸時代に至ってまでも北陬海岸地方には、なお蝦夷と呼ばれ、アイノと差別された部落が各地に取り遺され、その津軽領内において藩庁より最後の差別撤廃を命ぜられたのは、実に近く文化三年の事であった。そして北海道においては、彼らの同族が現にアイヌの名の下に、今や同化融合の実を挙げつつある途中にいるのである。
 かくの如きは交通不便の古代において、中央文化の進展が遅々として僻陬の地にまで普及せず、しかも一方先住民族の勢力微々として振わず、ために国家社会の問題を惹起することなきに至っては、為政者ももはやこれに対して考慮を払うこと少く、したがって歴史に何らの記録を遺すことなしに、黙々の間に彼らは永くその旧態を持続せしめられたのであった。かくて一方には新文化を有する民衆の移住によって、そこに新しい村落が建設さるるに至っても、なおそれに隣って永く一方には先住民の村落が、久しく保存さるるというが如き場合も少からぬ状態にあったのである。そしてそれはひとり奥羽の北陬においてのみならず、かつては内地各所に類似の現象が認められ、ためにしばしば些細ながらも両者の間に種々の交渉の生じた場合も少からぬ事であったに相違ない。今その一例として、ここに「ケット」と「マット」なる語について考察を試みてみたい。


 新潟県中魚沼郡の山間に、土俗ケット或いはケットウと呼ばれる部落がある。またそれに対して別にマットと呼ばれる村民があって、ケットの者はそのマットの者を目してマットムジナと称し、人を騙すものとして恐れていたというのである。今去る九月に長野県下水内しもみのち郡桑名川へ行った時の聞書をまずここに断片的に紹介してみる。
 越後の中魚沼郡と信濃の下高井郡とにわたって、信濃川の支流なる中津川の上流、苗場山の西方渓谷地方を秋山谷という。交通不便な極めての山間で、里人との交渉も少く、したがって近い頃まで甚だしく未開の状態に置かれ、越後あたりでは、秋山の者と云えば直ちに山の者の代表的名辞となり、今では土地の者も秋山者と言われる事を甚だしく忌み嫌う風があるという。それで里人同士の間で相手をからかい罵り合う場合などにも、「何だ秋山のもんじゃないか」などという。その場合相手のものは、「今は秋山だって開けたからなあ」など応酬するの例だという。所謂ケットはその秋山谷の代表的なもので、彼らは自ら平家の落人オチウドと称し、他と交通縁組を忌み、近い頃まで普通教育も実施されず、他村人が訪問しても確かな紹介が無ければ面会もせず、時としては戸を閉して隠れてしまう程だったという。無論言葉も風俗も里人とはすこぶる相違し、今は水電工事も出来、小学校の分教場も置かれて、その言う如く余程開けて来たには相違ないが、かつては粟、稗、玉蜀黍とうもろこしの類を常食とし、とちの実を貯えるという風で、熊、猿、零羊かもしかを獲って里へ売りに出て、米を買って帰るくらいが里との交通のおもなものであったという。夜寝るにも蒲団がなく、炉ばたで焚火に暖を取る。大病人に米養生までさせたが、それでも死んだのは寿命とあきらめねばならぬとか、瀕死の病人の枕元で、竹の筒に米を入れてそれを振ってその音を聞かせたとかいう、どこにでもよくある挿話は、ここについても語られているのである。その他ケットの人が里に出て、下駄を見て不思議がったとか、立舂たてうすを見てそれを知らなかったとか、世間によく語らるる山の馬鹿聟さんに関するお伽噺の様なことが、ここにも少からず語られているのである。そんなかけ離れた武陵桃源境であるが為に、ここばかりはかつて天然痘もはいった事がない。近ごろ種痘を強行しようと思うても、どうしても応じないので、ことさらに痘痕面アバタヅラの医師を選んで、体験談からやっと納得させたという事実もあるそうな。