国号の由来(こくごうのゆらい)


 昭和九年初頭の第六十五回帝国議会において、頭山満氏ほか数氏の名を以て、国号制定に関する請願なるものが提出せられた。我が国は大日本帝国だいにっぽんていこくなのか、日本国にほんこくなのか、またこれを口にするに或いはニッポンと云い、或いはニホンと云い、外国人はジャパンとも、ヤポンなどとも云っているが、この際国家において正確なる呼称を定められたいと言うにあったらしい。一大帝国の国号がハッキリしないという事は、考えてみれば妙な次第ではあるが、外国人とも交渉が少く、また主として漢字に依拠した時代にあっては、それでもさして不都合を感ずる事なく、千数百年来それで間に合って来たのであった。しかし今日ではもはやそれでは許されぬ。漢字にたよらず、もっぱら自国の文字でそれを仮名書きにする西洋人にとっては、ニッポンとニホンとは明らかに別の名である。ことに各自自国の慣例によって、ジャパン・ヤポンなどと呼ぶ場合においては、一層物が面倒になる。さきに米国では外国よりの輸入商品に対して、その製造地を英語を以て記入すべしとの規定から、「ニッポン製造メイド・イン・ニッポン」の記入ある我が物貨の輸入を拒絶し、或いはこれに対し罰金を課すとかのこともあったと聞く。かかる次第であってみれば、ここにその制定の急務が叫ばれるに無理はない。
 実を云えば我が帝国が東方海上に孤立して、諸外国と交渉を有しないような時代には、国号というべき程のものの必要は無かった筈で、神武天皇大和平野を平定して、ここに帝国のもといを定め給い、それより皇威四方に発展して、次第にその大をなすに至ったのであったから、自然とヤマトの名が、その国家を指示する場合に用いられるようになっていたのである。しかしそれは勿論口称だけのことで、未だ文字を以てこれを表わすことは無かった。しかるに三韓服属以来、かの国人は古来支那人使用の文字のままに、これを「」と号し、或いは「大倭だいわ」と敬称する例となり、我が国またこれに倣って、その文字を在来の呼称なるヤマトの語に当てたのであったが、しかもそれは我が国号としては、適当の文字では無い。
 三韓人はまた一方に、我が国が東方日出処ひいづるところにあるが故に、これを日本ひのもとと称し、我が国でもそれを枕言葉として、「日の本のヤマト」なる称呼が用いられた。かくて推古天皇の使つかいを隋に遣わし給うに及んで、初めてその義にとって、「日出処ひいづるところ」またはひがしの文字を用い給うたが、しかしこれまた以て我が国号として定まったものではない。その後「日の本のヤマト」なる枕言葉の「日の本」が、直ちにヤマトの語を表わす文字として使用せられ始めて、唐との交通に際してもその文字が我が国号として用いられ、唐人はそれを自国の字音のままに音読して、ニッポンの名が始めて世界的に認められたものであったと解せられる。かくて我が国でも、いつしかその文字に重きを置きてこれを音読し、さらにその発音を和らげてニホンと呼び、双方並び行われて今日に及んでいるのである。すなわちに我が国号が、古来いかなる変遷を経て、以て今日に至ったかを叙述しよう。


 我が国家が始めて直接に支那の国家と交渉を持つに至ったのは、我が国では応神天皇の御代、支那では東晋の末であった、爾来、宋・斉・梁等の、所謂南朝の諸国と交通を重ねたが、その後国交中断すること百余年。隋起って南北両朝の諸国を統一するに至り、推古天皇は久し振りに小野妹子を遣わして、さらに国際間のよしみを通ぜしめ給うたのであった。この時の我が国書には、「日出処の天子書を日没処ひいるところの天子に致す、つつがなきや」とあったという。しかしながら、隋においては古来の伝統によりて依然我が国の事を倭国と称していたのであった。
 倭国とは、くわしくは倭人の国の義で、もとは一国の名称として呼ばれたものではなかった。倭人とは、支那の古代において東方海島の住民を呼んだ名称で、それが統一なき数多あまたの小国に分れていたので、支那の史籍で始めて我が国のことを記した漢書の地理志には、「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時をもって来献すと云ふ」とある。漢の武帝が朝鮮を征して、楽浪郡以下の四郡を置くに及び、我が九州地方なる所謂倭人の豪族らが、ここに始めて支那と交通を開くに至ったのである。もっともその以前から東方に倭人なるものの存在したことは、古代の支那人にも知られていたらしく、周の成王の時に倭人暢草を貢すとのことがあり、支那の古い地理書なる山海経にも、朝鮮半島の北部にあった蓋という国の位置を記して、「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す」など見えている。燕は周末戦国時代において、今の遼東地方に割拠した強国である。けだし太古においては、所謂倭人は朝鮮半島の南部から、我が九州地方にわたりてその存在が認められていたのであった。